タグ

宗教と哲学に関するcastleのブックマーク (122)

  • 心の統一性と「私」 - finalventの日記

    ⇒知的好奇心解放 - マ儿コの日記 - 言葉と人間の総体と断片化 すべての哲学者と心理学者と精神科医と宗教者に問いたいことなのだが、一般的に心と呼ばれる曖昧なものを一律に人間の総体であり最小単位として捉えるという姿勢の妥当性は、どこでだれが証明したのだろうか?論理的に言えば、まず話はそこからだろう。 話題設定がないのでレスという文脈ではないです。 で、マルコ青年のこの問いから発すると、というか、それは私もときおり考えるので、ちょいと。 まず、心が単一性を持っているかというのは、いろいろ議論はあるにはある。ちょい昔のあたりだと。 これとか⇒「 心の社会: : 安西 祐一郎,Marvin Minsky,マーヴィン・ミンスキー」 また、さっきのエントリ関連でいうとGとかもそう見ている。 また、無意識というの存在を前提においた現代世界では、心は常に無意識との関連に置かれるわけで、そこで身体や身体

    心の統一性と「私」 - finalventの日記
    castle
    castle 2007/07/08
    「心は常に無意識との関連に置かれるわけで、そこで身体や身体式の問題はある」「「私」とはなにかというのは、ある種の絶対性に行き着く」「今この場で、愛と罪が可能な存在である事において「私」が単一に現れる」
  • 禅 - Wikipedia

    仏教用語として「心が動揺することのなくなった状態」を意味する サンスクリット語「ध्यान( dhyāna、ディヤーナ)」の音写。 禅定(禅那) - 修行で目指す精神状態。類義語として、三昧(さんまい)や定(じょう)と訳されるサマーディ(巴、梵: samādhi)がある。 禅宗 - 中国で発達した大乗仏教の宗派 [1][2]。 形式禅-形を決めて特定の時間を設けて行う禅の姿勢 例:座禅(座って行う禅、亜流として椅子禅)、立禅(立って行う禅)、歩行禅(歩きながら行う禅)、寝禅(シンゼン/横になって行う禅) 実質禅(自由禅)-形式に捉われずに日常の中で行う禅の姿勢 例:禅(を通して行う禅)、作務禅(日常生活に必要な全てのことを通して禅) 座禅 - 座して行う修行で、禅宗における修行の中心とされる[3]。

    禅 - Wikipedia
    castle
    castle 2007/07/04
    「ディヤーナを現在の日本語にすると瞑想。ヨーガも現在の日本語にすると瞑想とされるが、本来は心を調御して統一に導くこと。瞑想は動作を言葉で説明する事ができるが、禅は不立文字である為、瞑想と禅は異なる物」
  • 鈴木大拙 - Wikipedia

    『大乗起信論』〔英訳〕(1900年) 『大乗仏教概論』〔英文〕(1908年) 『禅論文集1-3』〔英文〕(1927年、1933年、1934年) 『浄土系思想論』(1942年) 『禅思想史研究第一 盤珪禅』(1943年) 『日的霊性』(1944年) 『臨済の基思想』(1949年)[1] 鈴木 大拙(すずき だいせつ、名:貞太郎〈ていたろう〉、英語: D. T. Suzuki 〈Daisetz Teitaro Suzuki〉[2][3][4]、1870年11月11日〈明治3年10月18日〉[5] - 1966年〈昭和41年〉7月12日[5])は、日の仏教学者、文学博士である。禅についての著作を英語で著し、日の禅文化海外に紹介した。著書約100冊の内23冊が、英文で書かれている。1949年に文化勲章、日学士院会員。 名の「大拙」は居士号である。故に出家者ではない。生涯、有髪であった

    鈴木大拙 - Wikipedia
    castle
    castle 2007/06/30
    「西田幾多郎による大拙の人物評では「君は最も豪そうでなくて、最も豪い人かも知れない。私は思想上、君に負ふ所が多い」と『禅と日本文化』の序で評されている」
  • 倫理的に劣っていそうな一群の人々について - finalventの日記

    さっきのエントリの続きというか。ゴミやタバコをポイ捨てしたり、二人乗り自転車とか、あるいは電車の中のだらけた学生とか、酔漢とか、私はけっこうなんとも思わなくなってきた。 話が少しずれるが、以前、インドの人と話していて、ちょっと文脈を忘れていたが、彼は私をある種のカーストに嵌めて込んでいた。通常は、外国人は一律のカースト扱いになるのかと思うが、なんか微妙に私は上位カーストに認識されているっぽかたった。理屈はなんかありそうだが理解できなかった。 で、カーストについてちょっと話をした。これがまた要領を得ないので記憶もたいした像を結ばないのだが、ようするにカーストごとに生活様式があり、それはそれでいいのだ、みたいなものだ。うまく言えないのだが、倫理的に劣る人々がいてもそれはそのように宇宙がそうなっているのだみたいだった。 まあ、べたに言うと、倫理が劣る人というのは、身分が低いということのメリットな

    倫理的に劣っていそうな一群の人々について - finalventの日記
    castle
    castle 2007/06/18
    「カーストごとに生活様式があり、倫理的に劣る人々がいてもそれはそのように宇宙がそうなっている」「少年期に人は、できるだけ、高貴に生きようと思うべきだし、そう思わせるべき大人がいるべきだとは思う」
  • ちょっとだけ - finalventの日記

    エフェス郊外にあるマリアの教会への坂道を上りながら、ふと脇にパウロを幻視のように見たことがある。正確に言えば見たわけではなし、見えるわけではない。現代人の言葉でいえば想像したというものだが、経験的は強烈な被受性があった。まあ、それは通じる人には通じるだろうが。そして辿り着く高い小アジア半島の空の下で、マリアやイエスについても同じように、その教会の湧き水を飲みながら思った。黙想した。 イエスやパウロは私の前に立ち、弱いことは恐いことですか、強くなりたいのですか、あなたが当に最も弱いときに私=イエスが代わりに立ちます、なにも恐れることなく、その弱さと傷つきやすさだけを大事にしてください、そう語られたように思う。そしてイエスはいつも世のもっとも弱い人を私が覗き込めばそのなかに立ち、振り返って私を遠く見つめて微笑んでいる。私=イエスはここに居る。いつもいる。あなたが弱い人を見つめているなら私=イ

    ちょっとだけ - finalventの日記
    castle
    castle 2007/06/16
    「ヴェイユは世のありかたを重力として、己の真空こそが恩寵だとした」「己の真空を身体に引き寄せて、自殺したも同じに。自分が弱いこと無であることを身体性に及ぼしてしまう、ある種の炎のような恋情」「悪魔的」
  • 曇天、でも晴れるか、雨っぽいな - finalventの日記

    昨晩は事がステーキだったのでワインを少し飲んだ。このところ寝る前に乾きをいやすようにビール小瓶を一つ飲むが習慣的になりそうなので、やめてお茶でも飲んだ。寝付かれないだろうと思ったが、早々に寝てしまったようだ。 朝起きると、うひゃまた全身筋肉痛。身体は疲れていたのか。前回ほど痛くはないが、なんか歳かな俺とか思うが、朝立ちは良し。 若いフリもできる歳ではないがそう身体が老いてもいない。心の老かたはなんとも微妙だ。うまく言えないが、恋のような狂気ではなく、静かに人を愛したり、あるいは世の中できるだけ平和であってくれ(私は消極的な平和主義だよ)と思う思いのなかにこの世にあることの切なさというか老いがあるな。 さて目が覚めて、と、ケータイでfeecleにアクセスし、起床、とでも書こうかと思ったらメンテらしい。なんか少しさみしいような感じもした。みんな起きたかぁ月曜日。 ぼんやりとネットを見るが、さ

    曇天、でも晴れるか、雨っぽいな - finalventの日記
    castle
    castle 2007/06/11
    「ツールが思想に影響を与えるとは面妖なという風情であるが、考えてみれば、印刷と聖書はそのような関係にあった」「システムがフラットに私に告げる、なんというか、普通の人の生きがたさの痛みや喜び(嫁)」
  • 霊魂 - Wikipedia

    この記事は中立的な観点に基づく疑問が提出されているか、議論中です。 そのため、中立的でない偏った観点から記事が構成されているおそれがあり、場合によっては記事の修正が必要です。議論はノートの「冒頭「想像上の」概念という記述について」節を参照してください。 (2021年6月) この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。 出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方) 出典検索?: "霊魂" – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL (2014年4月) 魂は二人の天使によって天国に連れて行かれた (1878年)、ウィリアム・アドルフ・ブグローの絵画。 霊魂(れいこん、羅: anima、ギリシア語: Ψυχή)は、肉体とは別に精神的実体として存在

    霊魂 - Wikipedia
    castle
    castle 2007/05/16
    「また、日本語のたましい(魂)という言葉は、信念や思想、あるいはその心を表現する言葉としても慣用的に使われる」
  • そういえば縁起論だが - finalventの日記

    あれから時折考えたのだが、大筋として、十二支縁起は別に間違ってもいないというか、十二支縁起には時間は含まれていないなと考えなおした。 ⇒十二因縁 - Wikipedia ただ。 ⇒縁起 - Wikipedia すなわち有・無によって示される空間的にも、生・滅によって示される時間的にも、すべての存在現象は、孤立してでなく相互の関係性によってのみ現象していることが説かれている。 釈迦がさとったように、いっさいのものは、独一存在でなく、無我である。しかし、すべてが無我でありながら、価値を持ち、存在性を持ちうるのは、すべてが縁起であるからである。この関係においてのみ存在者は存在性を獲得することができる。 この空間とか時間とかの説明はやっぱり間違っていると思う。特に、「生・滅によって示される時間的にも、すべての存在現象は、孤立してでなく相互の関係性によってのみ現象している」は違うでしょう。 諸法の仏

    そういえば縁起論だが - finalventの日記
    castle
    castle 2007/05/14
    「生あるときは生のみ、死あるときは死のみ。生・滅によって示される時間的に存在現象はない。認識・関係性といった対象性、参与性のないとき、すべては存在しない。すべての存在は今現時点にしかありえない」
  • ジッドゥ・クリシュナムルティ - Wikipedia

    ジッドゥ[* 1]・クリシュナムルティ(英語:Jiddu Krishnamurti [Kṛṣṇamūrti], 1895年5月12日 - 1986年2月17日)は、インド生まれの宗教的哲人、精神教師、教育者、神秘家[1]、ヨーギー[1]、精神世界の著作家。 すべての物事が時間的にも空間的にも互いの条件付けによって成り立つと考え、人は組織、信条、教義、聖職者、儀式等によって真理に到達することはできず、ただ自己認識によってのみ真理を見出すことができると説いた[2]。あらゆる伝統を否定したが、彼が語る真理の発見と体験はインド思想に立脚していると考えられており、インド哲学・ヒンドゥー教のアドヴァイタ・ヴェーダーンタ、仏教との共通点が指摘されている[2][3]。インドだけでなく、欧米でも幅広い支持を得た[2]。 クリシュナムルティは1895年5月12日、南インドのマドラス(現在のチェンナイ)近郊に位

    ジッドゥ・クリシュナムルティ - Wikipedia
    castle
    castle 2007/05/10
    「思想の中心となる主題は「あるがままの認識」である」「神を信じる者は神を発見することはできない」「世界に争いをもたらす観念の正体とは何か。それは記憶と欲望だとクリシュナムルティはいう」
  • 小林秀雄の読み方 - finalventの日記

    いわゆる近代批評の部分確立した小林秀雄というのは「モーツアルト」で終わりなんですよ。 あるいはその延長というか。「ゴッホの手紙」とかけっこうどうでもいい。 その意味ではこれが必読ですよ。 小林秀雄: 江藤 淳 小林が長谷川泰子関連のどたばたで自殺しようとした遺書まで含まれていて、そのあたりは圧巻です。よく小林がこれを公開したものだというか、このころ小林は江藤に賭けていた部分もあったのかと思う。 ただ、江藤のこの作品は、作品としてみると、けっこうとほほ。 この問題はこれとも関連。 これ⇒極東ブログ: [書評]中原中也との愛 ゆきてかへらぬ(長谷川泰子・村上護) で。 と、ちょっとウィキペディアを見たら苦笑⇒小林秀雄 (批評家) - Wikipedia 小林秀雄の真価はむしろ、ドストエフスキイ論から始まる。 これね⇒「 ドストエフスキイの生活: : 小林 秀雄」 これがどのくらいすごい問題を

    小林秀雄の読み方 - finalventの日記
    castle
    castle 2007/04/17
    「言葉が生み出す歴史の必然性の中で、最後に個を、その死の隔絶性よって救い出すところにある。つまり、個の死の絶対性という悲劇性のなかで、すべての予定調和的な神学を拒絶しながら倫理を打ち立てようとした」
  • 2007-04-15

    早とちりは禁物だ。数学や理科は相変わらず芳しくないし、記述式や応用力を試す問題の成績はガクンと落ちる。 そういえば昨日、「数学は普通社会人としては必要ない」というのを書いたらそこだけカチンと来たが方も少なかった模様。いわく、数学で培った論理力とか合理的なものの考えかたとか……。 数学というのですね、なんというか、初等数学は実務的な理系の技術に結びつくけど、そのレベルは技術の補助であって、学問とは違うのですよ。逆に技術を学べば自然に身に付くものですよ。とかいうとまた不要な誤解を招くし、当の問題は高校の数学つまり初等数学なわけで、だったらええじゃんはそうなんだけど。 数学っていうのは、放言でいうと、ヒッジョーによからぬ学問ですよ。 たとえば⇒ボヤイ・ヤーノシュ - Wikipedia 幼いころから数学に異常な才能を示し、13・4歳のころには父親の代わりに講義を行い、好評を博したという。オースト

    2007-04-15
    castle
    castle 2007/04/17
    「いわゆる哲学は、哲学・学なんでけっこう暢気。まじで哲学志向の人はおかしくなって自滅しているだろうと」「ピアノというのは完全な楽器なので、音楽を一人で完成させられるという狂気が」「数学はもう秘儀宗教」
  • ニーチェ曰くの神の死

    castle
    castle 2007/04/01
    「神は死んだ。人間への同情のために、神は死んだ」「ニーチェは、神の理念が人間の生存の力を弱めて希薄にすること、そしてやがては人間の生への意志を窒息させるであろう事への憤りとして、神を否定している」
  • 私の神

    私にとっての神とは精神の安定を図る為の触媒のようなものだ。 神は自分の内側に存在する、徹底的に相対化されたもう一人の自分だ。 社会の中で生きて行く中で、思いもしない矛盾や理不尽に見舞われる事は沢山ある。それに対して自分が反射的に返すのは、怒り、憎しみ、絶望などの、負の感情だ。でもそれをいちいちむき出しにしていては社会の中で平和に生きてはいけない。 精神的な安定と慰めは、愛する家族や友人がいればその人達によって与えられるかもしれない。どんなにその人達が矛盾した存在であっても、その人達を愛することには関係しないだろう。 だがそういった人達が存在しない場合は?あるいは絶対的な信頼を寄せられるだけの愛を感じられない場合は? 最後に残るのは自分だけだ。だが自然状態の自分は負の感情で一杯になっている。 そこで自分の中で神という存在を作り出す。自然状態の自分から徹底的に相対化するために、仮想の人格を与え

    私の神
    castle
    castle 2007/03/23
    「答えのない問いに対してなお答えを求めて神に問いかけているうちに、時が経って頭は冷えて、答えらしきもののかけらも見つかって精神的安定が訪れる」「だから私の信心は私だけのものであり、非常に個人的で大切」
  • ルドルフ・シュタイナー - Wikipedia

    この記事には複数の問題があります。改善やノートページでの議論にご協力ください。 出典がまったく示されていないか不十分です。内容に関する文献や情報源が必要です。(2015年10月) 独自研究が含まれているおそれがあります。(2015年10月) 出典検索?: "ルドルフ・シュタイナー" – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL ルドルフ・シュタイナー(Rudolf Steiner, 1861年2月27日 - ) 1925年3月30日(64歳没))は、オーストリアやドイツで活動した神秘思想家、哲学者、教育者である。ゲーテの自然科学論や学芸雑誌の編集に携わりながら、前衛的な団体やアナキズムの傾向をもつ人々と関係するようになり[1]、ニーチェ主義的な[2]自由思想の立場に至るが、神秘思想の講演者に転身し[

    ルドルフ・シュタイナー - Wikipedia
    castle
    castle 2007/03/21
    この説明だとオカルティックに見えるのは、解説に使われてる日本語がオカルトの流れを汲む表現が使用されてるからっぽい言語の問題なのかも? カント読んでるようだし、霊的云々はモノ自体みたいな話かも?
  • 倫理・宗教・法律を持ち出さず、かつ情に訴える以外の方法で、「なぜ人を殺してはいけないか」を説明してください。…

    倫理・宗教・法律を持ち出さず、かつ情に訴える以外の方法で、「なぜ人を殺してはいけないか」を説明してください。 説明できない・いけない理由はない・ケースバイケース、という類の回答はご遠慮ください。

  • あなたは自分の人生の経営者ではありません。子供たちもいずれ自分の人生の荒波に消えていきます。 - finalventの日記

    って感じかな、俺はね。 私は人間の人生というのは失敗するようにできているのだと確信している。 なので、成功を実感しつつ、ポジティブに生きている人間というのがよくわからない。ボルネオには私の知らない生物がいるのと同じくらい。 というあたりで、考えが止まる。 まあ、いいや、私は私なり考えてみよう。 生きていると困難にぶつかる。半分は偶然だ。しかし、その偶然が、げ、それはないでしょっていうくらい悲惨なことがあるのが、人生の不可解の一つだ。ここから得られる一般論は、人生というのは大方運命だな、と。 死んだ人は帰らない。 失われた愛は戻らない。 がっつんと不運に会ったら人生は終わるまでの不良債権処理みたいなもん。 で、あと半分だが。 自分が生きようと目論見ると、困難になる。これは多分に、自分は自分の心に嘘はつけないなというところに端を発している。もちろん、自分の心に嘘をつけないやつなんか社会に生きて

    あなたは自分の人生の経営者ではありません。子供たちもいずれ自分の人生の荒波に消えていきます。 - finalventの日記
    castle
    castle 2007/01/30
    「生きていると困難にぶつかる。半分は偶然」「あと半分だが。自分が生きようと目論見ると、困難になる。自分は自分の心に嘘はつけないなというところに端を発している」「成功することを心のどっかで望んでいない」
  • エングラム/「トラウマ」「シャドー」「業」との対応 finalventの日記 (2007-01-26) コメント欄

    昨日、なんつうか心の問題を見つめていて。 こんなのとか⇒finalventの日記 - 心の中の暗い核 それから瞑想っていうもんでもないが静かに考えるというか瞑想するというか、ま、だいたいわかった。 なんか新興宗教の教義というか不気味な精神分析みたいな話になるかもしれないし、真理とか真実とかはまるで関係ないが略、ま、メモ書きしておこう。もしかすると、人によっては危険な話かもしれないのであまり読むことをお勧めしない。 ココロの問題: 音楽: toutou,coita,キタムラタケシ,青山紳一郎,森山フラミンゴ,反す刀で,翠蓮,DJ TAKI-SHIT まず人の心の構造は、案外サエントロジーのエングラムのスキームでいいのではないかなとなんとなく思っていた。ただ、これはサイエントロジーが正しいというわけではない。 歴史を見てもそうだが、人というのは救済を求める。救済とはなにかというのは、曖昧で意味

    エングラム/「トラウマ」「シャドー」「業」との対応 finalventの日記 (2007-01-26) コメント欄
    castle
    castle 2007/01/30
    「トラウマは、私の定義のエングラムではほぼ同義」「メタエングラムはトラウマを導くクラス」「シャドーにより自我がさらに統合されるというのは私的に欺瞞」「メタエングラムの構造は存在それ自体がカルマかも」
  • ユダヤ人大富豪の教え : akiyan.com

    ユダヤ人大富豪の教え 2007-01-27 ユダヤ人大富豪の教え このサイトから -人 が購入しました 全体で -人 がクリック posted with amazlet on 07.01.27 田 健 大和書房 売り上げランキング: 58552 おすすめ度の平均: 世界平和へのヒント 小説の様なよみものの様なやわらかいつくりなのが特徴 大富豪が生きるヒントを与えてくれる Amazon.co.jp で詳細を見る 周りで読んでいる人が多かったので読んでみました。お金の話と自己啓発のバランスがとれたいいだと思います。というわけで、より抜きメモ。 君が提供したサービスの量と質=君が受け取る報酬額 (中略)給料をもらう人間は働いている時間が退屈なので、その時間が早く過ぎないかだけを考えている。彼らは、「人からもらえるもの」にしか興味がないのだ。だから、金持ちになれない。 一方、スターと呼ばれる人

    castle
    castle 2007/01/28
    「現在の世の中は、経済価値や喜びを与えた人間が豊かになるようになっている」「人生は「考えること」と「行動すること」の二つでできている。今まで考えてきたことと、思考の結果行動してきたことの集大成が君だ」
  • 私は神も仏も信じない - finalventの日記

    それはただある、とか、ユンクのように言うわけでもない。 こんなこと言うなよ、今日の一言みたいだが: 私はあなたが信じる神を信じない。 というのがま私の人生の此処までところ。結論先に言うとダメだなぁと思う自分がね。ただ、孤独なんだしこうした問題は内面に正直にある以外どうしようもない。 神は人々の心の中にいて、世界の不正に対して、君の参戦を期待している、というふうに考えることは可能かとも思う。ま、よくわからない。 ただ、人に心というものはある。どうやらこの虚無の宇宙のなかに「私」はいるようだ。「私」が存在し「心」があるということはこの虚無の宇宙のなかに「命」があるということだし、命のある宇宙とは虚無とは思えない云々って考えると神がいそうだし、いてもええんでないと思うこともある。というか、汎神論ではなく、この今のすべてが神だとか言えないこともないと思う。 ただ、この問題はそんなめんどくせーことで

    私は神も仏も信じない - finalventの日記
    castle
    castle 2007/01/20
    「私はあなたの信じる神を信じないというとき密かに私は私の神(信仰)を持つという時、私は「あなた」と切り離されている。キリスト教神学的にいうとそこにεκκλησιαがない」エレクシア。教会。共同体?
  • 死 - Wikipedia

    この項目では、人や生物の死全般について説明しています。 法令や社会における人の死については「死亡」をご覧ください。 権利の主体としての人の死については「人の終期」をご覧ください。 死の世界的な象徴としてのヒトの頭蓋骨 死(し)とは、 命がなくなること[1]。生命がなくなること[2]。生命が存在しない状態[2]。 機能を果たせないこと、役に立てないこと、能力を行使できない状態[1]( → #比喩的な用法を参照)。 ただし、何をもって人の死とするのか、その判定や定義は文化、時代、分野などにより様々である(→「死亡の判定・定義」節を参照)。一旦は命が無いとされる状態になったが再び生きている状態に戻った場合、途中の「死」とされた状態を「仮死」や「仮死状態」「臨死状態」という。伝統的に宗教、哲学、神学が死を扱ってきた。近年では、死生学、法学、法医学、生物学等々も死に関係している。死の後ろに様々な言葉

    死 - Wikipedia
    castle
    castle 2007/01/20
    「死とは、生命活動が不可逆的に止まる事、あるいは止まった状態。滅ぶ事や滅んだ状態、存在しない状態」「転じて、組織の滅亡や、そのものがもつ本来の機能が失われる事を例えて「死」と表現する事も」