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比較政治と国会に関するcheap_watchdogのブックマーク (2)

  • とにかく削減ありき/衆院定数10減の調査会答申案/選挙制度に手つけず

    衆院議長のもとに設置された「衆議院選挙制度に関する調査会」(座長・佐々木毅東京大学元総長)が年明けの1月14日に衆院議長に提出する答申案で、現行475の衆院定数を10削減することを決めました。選挙制度のあり方に関する議論もないまま、とにかく削減ありき、民意切り捨てのでたらめぶりを露呈しました。 「根拠」苦し紛れ 答申案をまとめた16日の調査会後の記者会見で、佐々木座長は定数10削減の根拠について、沖縄返還前の定数が466だったことを突如持ち出し、「それを突き抜けた意味で、戦後一番少ない議席数を提案した」と述べました。一方で「他の基準が、はっきり申し上げてあんまりないもんですから」と語ったように、苦し紛れに持ち出した「根拠」にすぎません。 同会見で佐々木氏は、諸外国との比較で日の国会議員数が決して多くないことを認めています。定数削減を求めた各党の主張についても「真意をうかがうことが難しかっ

    とにかく削減ありき/衆院定数10減の調査会答申案/選挙制度に手つけず
    cheap_watchdog
    cheap_watchdog 2015/12/20
    こう言い切れるかは別として傾聴するのが立法府かと…。抜粋→ 小選挙区は得票率と議席獲得に著しい乖離(かいり)をつくりだす制度です。 比較第一党の「虚構の多数」を作り出し、民意の反映を大きくゆがめます。
  • 全権委任法 - Wikipedia

    ヒトラーは政権を握った際、自らに独裁権を与えることを主張していた。1932年7月の選挙で国民社会主義ドイツ労働者党(通称:ナチ党)は第一党となり、国防相であったクルト・フォン・シュライヒャーがパーペン内閣への協力を要求した。この時、ヒトラーは自らの首相就任と全権委任法の成立を要求している。しかしこの時は妥協が成立しなかった。 1933年1月30日に成立したヒトラー内閣最初の閣議でも、一定の授権法制定が議題となった[9]。その後ヒトラーはまもなく国会を解散し、4年間の政権委任を訴える選挙キャンペーンを行った。この選挙中の2月27日にドイツ国会議事堂放火事件が発生した。ヒトラーは大統領に要請し、「共産主義暴動の発生に対応するため」として、「ドイツ国民と国家を保護するための大統領令」と「ドイツ民族への裏切りと反逆的策動に対する大統領令(de:Verordnung des Reichspräsid

    全権委任法 - Wikipedia
    cheap_watchdog
    cheap_watchdog 2015/12/16
    集団的自衛権の立法プロセスを見てみても、これ(そのものズバリだとは限らず、巧妙な類似行為含む)を改憲手続で行われ、誰も政権を指弾できなくなったらおしまいって気がします。
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