哲学の知識を基礎とした深い洞察。内田樹のすごいところは文才があるところ。つまり読みやすい。 中学生でも理解できる書き方になっている。 内田樹は一貫して、哲学と常識のハイブリッドを語っている。 こういう本を書けるのは内田樹ぐらいしかいない。 昨今のニュースを見て大人たちがいかにいい加減でエゴイストであるかを見せつけられて呆れている早熟な中学生に読んでほしい。
2009年10月10日15:00 カテゴリ書評/画評/品評Value 2.0 リバタリアンの希望と勇気 - 書評 - 希望を捨てる勇気 著者より献本御礼。 希望を捨てる勇気 池田信夫 本書は、リバタリアンというものを理解する上で、日本語で書かれた最も(優|易)しい一冊なのではあるまいか。 本書を読めば、よくわかる。 なぜリバタリアンは正しいかが。 そしてなぜリバタリアンは不人気なのかが。 本書「希望を捨てる勇気」は、リバタリアンとしてネットで最有力の論客である著者が、池田信夫 blogにおけるこれまでの論考をまとめたもの。 目次 - 「本」の検索と購入より はじめに 第1章 格差の正体 1 何が格差を生み出したのか 2 新しい身分社会 3 事後の正義 コラム 情報の非対称性 第2章 ノンワーキング・リッチ 1 社内失業する中高年 2 働きアリの末路 コラム 補完性 第3章 終身雇用の神話
今回筆者が編集部から依頼されたテーマは、「きたるべき秩序とはなにか」というものだ。その論考に入る前に、自己紹介もかねて、本稿を執筆するに至った背景や経緯について簡単に記しておきたい。 昨年から筆者は、さまざまな場所でウェブ上の新しい「秩序」に関する論考を発表する機会に恵まれてきたが★1、そこでキーワードにしてきたのが「生態系」や「生成力」といったある種の生命論的・生態学的なメタファーであった。インターネットの大衆的普及からはや10年以上が経過したが、そこでは種々さまざまなコミュニティやそれを支えるアーキテクチャ(人工構造物)が日々発生・成長・淘汰を繰り返しており、その全容を見渡すことは極めて難しくなっている。筆者はまずその現象に切り込むための解読格子として、「生態系」をはじめとする生命論的なメタファーを採用したのである。 ■ しかし、ただちに注釈しておかねばならないのは、こうした生命系のメ
アーレンとは「複数性」と言う言葉を使って多様性を表現している。彼女が言う複数性には、数的な意味合いも含まれているようで、実数的にも思想的にも、異なる意見の尊重こそが人間社会を運営する上で最も重要な概念であると認識しているようで、この見解には賛成だ。 現在の日本で最も足りない要素の一つが意見の相違をお互いが認め合う「複数性・多様性」であると思い続けてきた。 我々の社会には、何かしらの目に見えない共通の「常識」とでも言うか、漂っているモワっとしたものが、我々を縛っている。これを私は「和の呪縛」と言っているのだが、この社会ではある出来事に対して一定の範囲内の意見や態度・ふるまいしか認められない「空気」が存在する。このような空気というか、コモンセンスというかは何処の社会にもあるだろうが、日本ではこの空気に従うことが正しい、「絶対」に、というところに危惧を感じてしまう。 そういう意味で日本も(ある程
「自己責任論」再考 文=杉田俊介 長い間不安定な生活や貧困状態に置かれた人の多くが「悪いのは自分だ」「自分の努力や能力が足りなかったから仕方ない」という自己責任の念に苦しめられる。フリーターもそうだし、野宿者もそうだ。ぼくもそうだったし、今もそうだから、よくわかる。 自立生活サポートセンターもやいの湯浅誠さんによると、格差と貧困は違う。「努力や能力に応じた格差はよい」とはまだ言えるが、貧困は政治的社会的に解決すべき問題で、個人の自己責任の埒外にある(「格差ではなく貧困の議論を」『賃金と社会保障』2006年10月下旬・11月上旬号)。雨宮処凛さんは繰り返し「ニートは全然悪くない。フリーターも全然悪くない」(『すごい生き方』ブログ)と言い切る。 湯浅さんも雨宮さんの質問に答えて「自己責任論は、自分のストレスや社会の矛盾を自分自身に向けさせる、もっともコストのかからない、もっとも安上がりに貧困を
1.闘う民主主義 2008年9月24日付東京新聞朝刊 「ニュースの追跡」 欄は、ケルン発三浦耕喜特派員電として、「ネオナチ計画国際会議ドイツ市民ら実力粉砕」 「極右に居場所を与えない」 という見出し、 「極右に居場所は与えない。これが過去のナチス台頭から学んだドイツ社会の民主主義だ。社会を分断する言論は民主主義の敵だというのがその理由。 ドイツ西部ケルンでネオナチ勢力らが計画した 「反イスラム化国際会議」 は、市民の実力行使により粉砕された。」 というリードで、ケルン市内でネオナチグループが反イスラム化の国際会議を開こうとしたところ、これに反対する市民らが会場入口を封鎖し、実力で妨害し、 遂には警察の中止命令により集会が中止になったことを2枚の写真付きで報じている。 同記事によれば、集会を企画したのは、ネオナチ政党ドイツ国家民主党 (NPD) の流れをくむケルン市議会の極右会派 「親ケルン
今こそアーレントを読み直す (講談社現代新書) 作者: 仲正昌樹出版社/メーカー: 講談社発売日: 2009/05/19メディア: 新書購入: 12人 クリック: 58回この商品を含むブログ (98件) を見る http://d.hatena.ne.jp/Geheimagent/20090619/p1 仲正昌樹『今こそアーレントを読み直す』という本について。実はこの本、買ったのだけど*1、まだ読んでいない。なので、この本に関しては立ち入らない。ただ、「共感」云々というのがエントリーの中に出てくるので、少し注釈めいたことを。 「共感」という日本語に対応しそうな英語なのだが、『革命について』第2章「社会問題」の中で、アレントはcompassionとpityという2つの言葉を微妙且つ明確に区別している。ルソーに端を発して全体主義的な悲惨の契機になったとして糾弾的に論じられているのは後者の方。『革
承前*1 政治・社会論集―重要論文選 作者: ラルフダーレンドルフ,Ralf Dahrendorf,加藤秀治郎出版社/メーカー: 晃洋書房発売日: 1998/11メディア: 単行本購入: 1人 クリック: 5回この商品を含むブログ (6件) を見るラルフ・ダーレンドルフ『政治・社会論集 重要論文選』からのメモの続き。 「不平等、希望、進歩」(加藤秀治郎、吉田博司、田中康夫訳、pp.142-173)から; 近代社会は、できるだけ多くの人々にできるだけ多くのものを与えるという原理の上に立脚している。(略)社会はその成因のライフ・チャンスを増加させるべきであり、すべての人のライフ・チャンスは等しく重要である、という二つの前提は、憲法や政党綱領に書かれ、さらにはほとんどの人の持つ〈目に見えないイデオロギーのトランク〉の中に根づいている。各人のライフ・チャンスは等しく尊重されなければならない、という
タイトルはてきとー。まぁ、一種の釣りと考えればよろしい。こんな高尚なことをテーマにした文章が書けるほど僕は頭良くありません。 はてな なるほどなー。何であそこまでエロゲ肯定派が、エロゲが差別的かどうかと言うことについて「対話することすら」拒否しているかっつーと、それは要するに彼らが、エロゲを「実存」を賭けるものとして捉えてるからなんですなー。 ◆◆ 現代の若者が「実存主義に走ってる」っつーたのは、北田暁大だっただろうか。*1 嗤う日本の「ナショナリズム」 (NHKブックス) 僕なんかはどーも年の割におっさんくさい人間だから、実存主義っつーとまずはサルトルを思い浮かべちゃう*2んだけど、この本で言う実存主義っていうのはサルトルとかのいう実存主義とはあんまり関係ないのかな。サルトルの「サ」の字も書いてなかったし。「実存主義」なんつーから、なんかサルトル研究の人とかが触れるかなーとか思ってたけど
『ネオリベ化する公共圏』(明石書店)に掲載された記事に加筆したもの。 シニシズムの原理としての 機会原因論 目次 オレンジ色のにくいやつ 批判主義とシニシズム ふたつの構築主義 ロマン主義の意味するところ シニシズムの原理としての機会原因論 オレンジ色のにくいやつ 早稲大学文学部の構内でビラを配っていた二十二歳のアルバイト男性が、「建造物侵入罪」の現行犯という名目で「大学教職員」によって身柄を拘束され、警察に引き渡されるという事件がおきた。二〇〇五年一二月二十日のことである。建造物侵入罪と、教職員という「私人」による逮捕の組み合わせが、かなり危機的なものであるということは、すでにべつのところで述べたとおりだ*。そのあとに「学生・教職員のみなさまへ」と題された、「早稲田大学第一文学部」「同第二文学部」「同文学研究科」の公式の声明が、早稲田大学文学部公式ホームページおよび文学部構内の立て看板に
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