進化論の射程―生物学の哲学入門 (現代哲学への招待Great Works) 作者: エリオットソーバー,Elliott Sober,松本俊吉,網谷祐一,森元良太出版社/メーカー: 春秋社発売日: 2009/04/01メディア: 単行本購入: 9人 クリック: 135回この商品を含むブログ (44件) を見る 本書は哲学者エリオット・ソーバーによる進化生物学周りの興味深い論点を取り上げている哲学書である.原題は「Philosophy of Biology」.いわゆる「生物学哲学」の著作であり,シリーズ「現代哲学への招待」の中の一冊ということになる.エリオット・ソーバーはマルチレベル淘汰論を主張するD. S. ウィルソンと「Unto Others」を共著していることで知られているし,体系学論争にも著作がある. 翻訳は松本俊吉,網谷祐一,森元良太という進化生物学に造詣の深い哲学者が行っていて,正
090617[bx2]-1 mirror neurons Asymmetric fMRI adaptation reveals no evidence for mirror neurons in humans タイトルの付け方がうまいですね。読む気にさせる。 例の有名な「ミラーニューロン」ですが, ミラーニューロン特性を有していることを示すためには以下のふたつの条件を満たす必要がある。 条件1) 特定の動作を遂行するときにも,認識する(観察する)ときにも 活性化する(「ミラーニューロンを含む」と想定される)領域が存在する。 特定の動作というところが重要。 条件2) その活性化は,非運動性のカテゴリー化によるものではなく, 直接観察によるものでなくてはならない。 ミラーニューロンは,視覚入力と,対応する運動プログラムの直接的なマッチングによって 行為の理解を実現させているという説(direc
2009年06月04日 19:09 心の理論の脳内基盤 「やられた」と思った。幼児の心の理論の発達の脳内基盤を検討した論文を見つけた瞬間である。いつかは検討したいなと思っていただけに、先を越された格好だ。 意外なのは、Nature、Science、PNASなどの一般誌に掲載されると思っていたら、専門誌のChild Developmentに掲載されていた点だ。論文の書き方を見るに、Child Development向けの書き方ではないので、一般誌には蹴られたのかもしれない。 心の理論とは、行動から他者の心の状態を推測する能力である。例えば、私が「まつや」の前で突っ立ていたら、それを見た人は、「あの人はまつやの牛丼を食べたいんだろうな」と推測するだろう。重要なのは、あくまで推測しているにすぎない点だ。私は牛丼なんか食べたくなくて、まつやの店員さんに見とれているだけかもしれない。 この能力、特に
本書「今こそアーレントを読み直す(仲正昌樹)」(参照)のテーマとなるハンナ・アーレント(Hannah Arendt)は、1906年ドイツ生まれのユダヤ人政治哲学者だ。名前からわかるように女性で、若いころは彼女の先生だった哲学者ハイデガーと濃い師弟関係もあった。後年ナチス政権を逃れ、フランスを経て1941年に米国に亡命した。その後米国で英語での主要著作をなし、1975年、期待される大著執筆の途中、68歳で没した。 彼女の思索が注目されたのは、その経歴の刻印にも関係するが、ナチスという政治体制を筆頭に、20世紀の全体主義体制をどのように考えたらよいかという課題に、独自の議論を展開したことによる。その独自性の意味合いと、彼女の最終的な思想の帰結について、本書「今こそアーレントを読み直す(仲正昌樹)」は、新書として軽い文体で書かれているものの、明確に描き出していて読み応えがあった。私はアーレントの
エライ先生とは誰か、社会学は守るべきか - akehyon-diary 太郎丸博氏がブログに書かれた「阪大を去るにあたって: 社会学の危機と希望」を読んだ。力の入った文章であるし、アンテナでみた範囲だけでも、小谷野敦氏や筒井淳也氏もコメントを書いている。ブックマークもたいへんな数になっているようだ。太郎丸氏の主張を要約すれば、もっと学会発表と学会誌を大切にしようというもので、まさに正論であるし、大筋のところでは異論はない。だが、いくつか細かな違和感もある。 まず、ここで批判の対象とされている「エライ先生」というのが、どんな人を念頭に置かれているのか、つかめそうでつかめない。社会学者でネームヴァリューがあり、著書も多い人と言って思い浮かぶのは見田宗介氏、大澤真幸氏、宮台真司氏といったところだが、それでよいのか、確信は持てない。 私はたとえば、見田「まなざしの地獄」「現代社会の理論」、大澤「虚
4/7 ロンドン出発前に行った藤村龍至さんへのインタビューです。 藤村さんのインタビュー集「1995年以降」を読み自分もインタビューという手法に魅力を感じ、自らの状況から批判的工学主義についてのお話を伺いました。 「工学的アプローチを復活する」 森田:まずは、僕の住む三河はトヨタをはじめ企業の工場がたくさんあって、そこで働く人たちが住んでいて日本中からも出稼ぎ的に働きにくる人もいるようなところです。もとが工業高校の出身なので、仲間もそうゆうところで働いたりしています。それで、動物化がこのまま単純に進んでいくんじゃないか、そうなったら僕がそこで建築家になったとしても、生きる道がないんじゃないかと。それでハウスメーカーなどの組織に対する建築家のスタンスに疑問をもっています。 藤村:企業城下町的なコンテクストで、宮台真司さんのいう「郊外化」、東浩紀さんがいう「動物化」「工学化」する社会状況という
Professor of Social Epidemiology Department of Society, Harvard School of Public Health Prof. Ichiro Kawachiは『Social Epidemiology』1)や『The Health of Nations』2),『Neighborhood and Health』3)などの共編者・共著者であり,社会疫学の第一人者として世界的に著名です。『Social Epidemiology』も『The Health of Nations』も,『New England Journal of Medicine』の書評で取り上げられ,“extraordinary(尋常でない)work”で,「将来古典と呼ばれるであろう」などの高い評価を得ています。 Kawachi教授は一連の著書の中で,経済格差の拡大は国民の
4月23日(木)、リヨン第三大学のエティエンヌ・バンブネ氏を迎えてセミナーが行われた。そのテーマは、メルロ=ポンティにおける「人間学」である。 バンブネ氏によれば、メルロ=ポンティの哲学は、「知覚の現象学」から始まって、最終的には「感覚の存在論」へと向かう体系であり、表立って「人間学」を作ろうとしたものではない。だが、彼の体系は、つねに一つの「人間学」によって支えられていると見ることができるのである。バンブネ氏は、ひじょうに明晰なしかたで、そのポイントを示してくれた。率直に述べるなら、メルロ=ポンティの「人間学」は、とてもバランスがいい。しかし謎めいた魅力のようなものはなく、どうにも健全にすぎる、とも感じられた。メルロ=ポンティは、動物的生(ゾーエー)と人間的理性(ロゴス)のあいだを決して切断しないが、同時に、人間の「象徴的」なロゴス、ものごとをそれ自体「として」対象化する言語能力が、やは
「希望」の話はまだまだ続き、今度は平岡公彦氏からむずかしいTBが来た。この問題がデリダやニーチェとつながるのは自然なので、少し立ち入って考えてみよう(これは別の意味でtechnical)。 デリダは『マルクスの亡霊たち』の中で、メシアニズム(messianisme)とメシア的なもの(le messianique)という区別を導入した。これは彼独特のわかりにくい用語法だが、簡単にいうとメシアニズムというのはキリスト教のように特定の目的をもつ積極的な救済、メシア的なものというのは「今とは違う状態」を求める否定的な救済である。いうまでもなくデリダが依拠するのは後者で、その観点からマルクスのメシアニズムを批判する。 マルクス主義は一度も幸福な社会を築いたことがないが、100年以上にわたって大きな影響力を持ち続けてきた。その最大の求心力は、現在の社会を全面的に否定して救済を求めるメシア的な希望を
「自然科学が自然の近似」と言いたくなるキモチはボクもよく知っている。研究をすることで「自然」についての知識が少しだけ増えて、研究成果を発表することでそれが共有財となり、自然に対するビジョンがちょっとだけ広がる。それはきっと自然の「本当の姿」にちょっとだけ近づいているに違いない。 元を辿れば、多分(明示的に書いてないけど)、apjさんのエントリhttp://www.cml-office.org/archive/1226948122175.htmlに対して、哲学的な議論が好きな(多分ね)quine10 さんがエントリ科学について(あるいは真理について) - quine10の日記を上げて、そのブコメはてなブックマーク - 科学について(あるいは真理について) - quine10の日記に ublftbo さん(TAKESANさんと書く方が通りがいいかも)が書いたコメントにボクが噛み付いたことを受け
I think it’s safe to say that intuitions about cases tend to be taken less seriously in material-object metaphysics than they are in (e.g.) epistemology, philosophy of language, philosophy of mind, and ethics. Does anyone know of any explicit discussion or defense of this differential treatment in the literature? In particular, is there any discussion (even in passing) of either of the following t
生態心理学から環境形而上学へ ――「形式的存在論」の応用の諸相―― 齋藤 暢人(早稲田大学)/染谷 昌義(東京大学) 1. 「環境」の形而上学 J.J.ギブソンによって創始された生態心理学(ecological psychology)の立場からすると、 知覚や行為を説明するための最小単位は、環境がエージェントに対してアフォードするもの(ア フォーダンス)affordance と考えられている。生態心理学においては、知覚その他の心理現象が 常に「環境」との相互関係において考えられ、探求される。 具体的な分析の内容はともかく、 哲学的に重要なのはその存在論的 形而上学的前提であるが、 ・ まさにそこに注目する研究は近年著しく増加している。なかでも、実在性をエージェントやその 対象性に限定せず、環境それ自体の実在性を積極的に認め、そうした存在論的立場の哲学的含意 を検討する動きがあることは興
今日の建築を巡る問題とは何か。そして社会の問題にその問題系は接続しえるのか。2009年1月28日に開かれた巨大なシンポジウム「アーキテクチャと思考の場所」は、そのような問いを共有した1,000人もの聴衆がその答えを求めるべく、6名の白熱したパネラーの議論を4時間もの長きに渡り追い続けた一夜だった。 モデレーターは東浩紀、パネラーは磯崎新、浅田彰、宮台真司、宇野常寛、濱野智史。建築のみならず社会学から経済学、文芸批評、情報社会論まで、今日の各分野を代表する識者が集い、今日の建築と批評を巡る問題系について議論を展開するというかつてないセッティングが行なわれた。そこで議論されていたテーマの可能性についてここで振り返ってみたい。 アーキテクチャの生態系 タイトルの「アーキテクチャと思考の場所」に関連して。アメリカの法学者L・レッシグらが語るアーキテクチャ型権力といういわば匿名の権力が物理環境と情報
第1回 ハイデッガーの「思惟の事象(Sache des Denkens)」 と フッサールの「事象自身に帰れ」の問題を解釈した。ハイデッガーの事象は唯一の存在(Sein)であり、フッサールの事象(Sache)は複数の様々な事象である。
MIYADAI.com Blog (Archive) > ゼミ生向けの講義を、ゼミ生がテープ起こししてくれました « [videonews.com] マル激トーク・オン・ディマンド更新しました | (上にアップロードしたものの続き[容量限界ゆえ]) » 一ヶ月ほど前にゼミ生の希望でやった特別講義です。 大学での僕のゼミの難易度がよく分かるだろうと思います。 ただ、僕のゼミの標準からいうと、やや平易だろうと思います。 というのは、ゼミ生とは違うお客さんが何人かいたからです。 ──────────────────────── 宮台真司 特別講義「裁判員制度の是非」 ──────────────────────── 【原則と運用の板挟み】 ■裁判員制度を考えると二つの問題に突き当たります。第一に、近代法の原則を知らないので、制度を評価する際の物差しがメチャクチャになるという問題。もう一つは、裁判
18日付けでD・フリードマンのブログ"Ideas”に以下の記事が掲載された。 Ideas: Rationality, Nudges and Slippery Slopes シカゴ大学ロースクールの教授であるキャス・サンスティーンとリチャード・セイラーの共著である以下の本の批判である。 Nudge: Improving Decisions About Health, Wealth, and Happiness 作者: Richard H. Thaler,Cass R. Sunstein出版社/メーカー: Yale University Press発売日: 2008/04/08メディア: ハードカバー購入: 3人 クリック: 35回この商品を含むブログ (19件) を見る フリードマンの批判は簡潔明快である。 すなわちいくらリバタリアン・パターナリズムにおいては、 予め用意される制度から離脱可
経済学にも求められる 統合的な人間像の提示: 合理的なヒト、それを超える人間 『心は遺伝子の論理で決まるのか - 二重過程のモデルでみるヒトの合理性』 キース・スタノヴィッチ著、椋田直子訳、鈴木宏昭解説/みすず書房、2008年 (The Robot's Rebellion, Keith E. Stanovich, 2005) 評者:瀧澤弘和(VCASIフェロー、多摩大学教授) 『心は遺伝子の論理で決まるのか - 二重過程のモデルでみるヒトの合理性』 キース・スタノヴィッチ著、椋田直子訳、鈴木宏昭解説/みすず書房、2008年 (The Robot's Rebellion, Keith E. Stanovich, 2005) 本書は、認知心理学者である筆者が遺伝子を複製の単位とする生物的進化理論と、ミームという複製子を単位とする進化理論の二つを用いて、個体としての人間存在の意味という壮大なテー
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