(06/03)TIMO GRIMM: REMAINING FRAGMENTS @ RUTGER BRANDT GALLERY, Amsterdam (06/03)Julius von Bismarck: Landscape Painting @ Sies + Höke, Düsseldorf (06/03)Thomas Trum @ GERHARD HOFLAND, Amsterdam (06/03)CHARLES HASCOËT: SUPERZOOM @ NEW GALERIE • YUKI_SNOW_IN_JULY @ New Galerie, Paris (06/03)JULIA HAUGENEDER: Idylle, blau @ Galerie Elisabeth & Klaus Thoman, Innsbruck (06/02)Jonathan Meese: AMAZONEN
人は視覚的イメージを、そのまま、劣化させることなく記憶できない。絵画の発生も、写真という欲望も、ともにルーツは同じだ。 確かに絵画と写真は、仲良く並走しているかのごとく装ってきたが、実は人間とアンドロイドほど違っていると、暴露されるようになった。 写真をもとに絵画をつくることは、写真が誕生した時から始まっている。しかし、ただ写真を使った絵画の歴史をなぞるだけでは、まるで意味はないだろう。 そこにおいて、どのような変換、変成がおこなわれてきたかを考えなければならない。 アジェたち写真家は、ユトリロのような、写真をもとに絵を描く画家の注文として写真を撮っていた。また、ドガのように「動き」を写真によって学習しようとした者もいた。また、写真が誕生することにより、印象派の人々(そして後期のスーラやドローネに至る光学の意識化)はもちろん、そのリバウンドとして、肉眼で捉えた世界として絵画を発展させようと
「マルレーネ・デュマス ブロークン・ホワイト」展(東京都現代美術館) 五月二十三日の産経新聞の文化欄にヘンリー・ダーガー展といっしょにマルレーネ・デュマス展の展評が黒沢綾子署名で載っているのを見て驚いた。カットの写真が展覧会のタイトルにもなっている《ブロークン・ホワイト》なのだが、これはどう見たって、女のエクスタシーの表情だろう。もっと正確に言えば、男が女を凌辱している場面にしか見えない。おそらく黒沢綾子はジェンダーとかセクシュアリティーの視点から、カットにこの作品を選んだのだろうが、新聞にふさわしいものとは思えない。こんなことを言うと、おまえこそ差別意識があるからだと言われそうだが、こんな図像はすでに巷に溢れていて誰もが見飽きてしまったもので、たとえばマネのヌードが当時持っていたような挑発的なものはどこにもないように思えるが、それはともかく、マルレーネ・デュマスの面白さはジェンダーや
1953年、南アフリカ共和国のケープタウンで生まれた。 1972年~1975年、ケープタウン大学で美術を学ぶ。 1976年~1978年、オランダに渡り、ハールレムのアトリエ63で絵画を学ぶ。 1979年~1980年、アムステルダム大学で心理学を学ぶ。 1995年、ヴェネツィア・ヴィエンナーレのオランダ館に出品。 2001年、大型個展がポンピドゥーセンターほかを巡回。 メディアに流通する写真や映像を題材に、生命のきらめきを感じさせるような独特の肖像画を描く。 性差別、性そのものをテーマとする肖像画をテーマとすることが多い。 自身の出身である南アフリカのケープタウンが人種隔離政策の下にあったこともあり、人種差別をテーマとした作品も描く。 また、写真家の荒木経惟の写真を扱った作品が日本ではよく知られている。 長谷川祐子によるインタビューの中で、自身の絵画の制作が映画監督と似た所があると述べている
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