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考古学・史学に関するemiyosikiのブックマーク (15)

  • 7万年分の「地球の記録」を引き揚げる:日経ビジネスオンライン

    山根 一眞 ノンフィクション作家 ノンフィクション作家として先端科学技術分野の熱い人間像を描き続ける一方、3.11被災地支援活動も人生の大きな柱です。 この著者の記事を見る

    7万年分の「地球の記録」を引き揚げる:日経ビジネスオンライン
    emiyosiki
    emiyosiki 2013/09/21
    “ニューカッスル大学地理学教室の講師(当時)に採用された中川毅さんは、その翌年、水月湖(福井県三方郡若狭町)の「年縞」をボーリングする”
  • さよならキトラ古墳。現地調査終了と石室封鎖へ - 歴史ニュースウォーカー

    21世紀の考古学界最大の不祥事といえば、高松塚古墳とキトラ古墳の極彩色壁画を国(文化庁)の不手際で「破壊」したことでしょう。 20世紀最大の不祥事の「旧石器捏造事件」は、民間の考古学者がやったことですが、こちらは文化財を守る総山の国の失態ですから、当の意味での重さはこっちのほうが痛いはずですが。。。(連続殺人犯を警察のミスで捕まえられないのと、警察官が殺人犯になるような違い) 奈良文化財研究所などがきのう(2013年3月13日)、キトラ古墳で、壁画をはぎ取り後の石室などの現地調査が終了したと発表しました。各紙のネットでの記事を見る限り、なぜ壁画をはぎ取ることになったのかについての批判的な内容は一切ありませんでした。 =写真は産経 こうして誰も責任をとらずに歴史の闇に消えていくのでしょう。そういえば、旧石器捏造事件でも別にだれも責任はとっていませんでしたね。なんだかなぁ。 なんで、こんな

    さよならキトラ古墳。現地調査終了と石室封鎖へ - 歴史ニュースウォーカー
    emiyosiki
    emiyosiki 2013/03/14
    さよならキトラ古墳。現地調査終了と石室封鎖へ
  • 昔の公務員はこんなめんどくさい仰々しいやりとりをしていました。今も面倒か、お役所は - 歴史ニュースウォーカー

    鳥取市の良田平田遺跡で発掘された文字が書かれた木簡が、飛鳥時代の文書だったことが分かりました。鳥取県教育文化財団がおととい(2013年3月4日)、発表しました。 大宝律令(701年制定)で、公文書の様式が決められる前のもので、文書でなく口頭で情報を伝えていたころの名残りだということです。 =鳥取県教育文化財団のPDF共同通信 表には「□□□御前□白寵命」(□□□は偉い人の名前、□は「謹」だったと思う)、裏に「使孔王部直万呂午時」と記されていました。 翻訳こんにゃくすると なんとかさん(=偉い人)の前で謹んで申し上げます。ご命令を受けて、孔雀王(うそ)をお昼時に使わせて物を渡させます みたいな内容だと思われます。 良田平田遺跡にあった地方役所から、別の役所に人を派遣したときの文書で、派遣された人が帰ってきて、捨てた、ということでしょう。 「前白」「寵命」という表現はこの時代の木簡でよくあ

    昔の公務員はこんなめんどくさい仰々しいやりとりをしていました。今も面倒か、お役所は - 歴史ニュースウォーカー
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    emiyosiki 2013/03/06
    昔の公務員はこんなめんどくさい仰々しいやりとりをしていました。今も面倒か、お役所は
  • 古墳をめぐる水面をわたるのは死者か生者か。古墳の濠にかかる橋の跡発見?【大阪・堺】 - 歴史ニュースウォーカー

    今回、あえて間違えた文字が一つあります。(知らずに間違えた文字はもっとあるかもしれません)。ヒントは古墳時代の道具。答えは最後に。 =堺市提供(時事より) 大阪・堺市のニサンザイ古墳をめぐる濠と斜面にかけて、29個の柱穴が見つかったと、堺市がきのう(2013年2月21日)発表しました。 そこに橋がかかっていたのではないか、との推論が紹介されています。 棺は当然、外から運ぶのだけど、大きい古墳は水で満ちた濠で囲まれているわけです。じゃあどうやって運んだのかというと、船ではなく、橋だったみたいですね。 発掘した状況からは橋がそれほど長く立っていなかったようです。 肝心の棺を運んだら、橋をこわしちゃったのかもしれませんね。 死者がわたると二度と現世に戻れない橋 その名も「アンリターナブルブリッジ!」 (中二鋲発動中) ニサンザイ古墳というのは、仁徳陵古墳などのある百舌鳥古墳群のひとつ。百舌鳥古墳

    古墳をめぐる水面をわたるのは死者か生者か。古墳の濠にかかる橋の跡発見?【大阪・堺】 - 歴史ニュースウォーカー
    emiyosiki
    emiyosiki 2013/02/22
    古墳をめぐる水面をわたるのは死者か生者か。古墳の濠にかかる橋の跡発見?【大阪・堺】
  • アジア初「世界考古学会議会長」となった九州大の考古学者溝口孝司さん - 歴史ニュースウォーカー

    1月に世界考古学会議会長に日人!というエントリーを書きましたが、 あの世界考古学会議が中国より早く東アジアで初めて京都で開催へ。で、なにそれ? その会長となった溝口孝司・九州大教授のインタビューが毎日新聞に出ていました。 (略) 今年1月中旬、第7回大会が82カ国・地域の考古学者が集まって、ヨルダンの死海沿岸で開かれた。大会第4日に前会長から「次期会長を」と打診された。溝口さんのこの大会での最大の仕事は次回大会(2016年)の京都招致。そのための演説を前日に終えたばかりだった。思いがけない申し出に「卒倒しそうになりました」。 死海の対岸にはパレスチナ西岸地区が見える。 「今対立している民族集団が過去に共生していたことを考古学で明らかにできる。対話の道をつけることが考古学とWACに期待されている」 こんなことを考えながら、日に電話したら家族も職場も後押ししてくれた。 (略) 「世界のいた

    アジア初「世界考古学会議会長」となった九州大の考古学者溝口孝司さん - 歴史ニュースウォーカー
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    emiyosiki 2013/02/22
    アジア初「世界考古学会議会長」となった九州大の考古学者溝口孝司さん
  • 陸奥新報 | 地域に根ざした情報をお伝えします!

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    emiyosiki 2009/11/30
    [平泉平安最北の水田跡が弥生最北の水田跡のある青森県田舎館に。前川遺跡
  • 陸奥国府・多賀城、創建時ぐるり木の柵 : 文化 : 社会 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)

    奈良時代の陸奥国府「多賀城跡」(宮城県多賀城市)で、724年頃の創建時に中心部分を囲んでいたとみられる木の柵の跡が出土した。 これまでに盛り土による囲いの跡は見つかっていたが、創建当初は木の柵で囲まれていた可能性が高くなった。 多賀城は東北地方の蝦夷(えみし)と戦っていた当時の中央政府の拠点。宮城県多賀城跡調査研究所が今年8月から政庁と呼ばれる城中心部分の南西部を発掘したところ、政庁を取り囲むように太さ約15センチの丸太の柱を並べた柵列の跡が出土した。 柵列は、南北に延びる遺跡の中心線から西側に約56メートルの長さと推定され、古代の一町(約108メートル)に対応して設計されたことがうかがえるという。今夏には、政庁の中心の南約250メートルでも、この柵と平行して東西に延びる柵状の遺構が出土しており、二重の柵だった可能性もある。多賀城以前の陸奥国府とみられている仙台市の郡山遺跡でも、中心部分を

  • 【蘇る東北史】第2部・平泉への道1 : 岩手 : 地域 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)

    emiyosiki
    emiyosiki 2009/02/13
    対蝦夷戦(38年戦争)と平泉の時代の間に十和田火山の噴火と開発バブル崩壊による断絶があった
  • 東アジア古典学としての上代文学の構築:韓国木簡研究の現在─百済木簡—新出資料を中心に—:李鎔賢

    百済木簡が初めて出土したのは1982年から1983年にわたった扶余・官北里蓮池およびその周辺発掘からであったが、文字があまり読めなかったため、ほとんど注目されることがなかった。引き続き百済地域の益山・弥勒寺址でも1987年に木簡2点が出土したが、報告書が1996年に刊行されたこともあって、同様に関心を引くことはできなかった。百済木簡の格的研究がなされ始めたのは、1997年10月-12月に扶余・宮南池木造貯水槽施設内で38字墨書木簡が出土してからである。百済都城の制度と関連してマスコミの大々的な注目をあび、これに関する1999年の報告書が刊行されるまで全3編の論考が発表されるなど、百済木簡研究の嚆矢となった。続いて扶余・陵山里寺址の発掘過程で、2000年に10点、2001年に19点が出土した。扶余・官北里からも2002年に12点、2003年に2点など、計14点の木簡が出土した。 こうした木

  • asahi.com(朝日新聞社):律令制は百済から学ぶ? 韓国で類似制度示す木簡出土 - 文化

    律令制は百済から学ぶ? 韓国で類似制度示す木簡出土2008年11月25日3時2分印刷ソーシャルブックマーク 古代の日中国をモデルに律令制度を整備する際に、朝鮮の百済(くだら)(4世紀半ば〜660年)が窓口の役割を果たした可能性を示す木簡が韓国で発見された。奈良〜平安時代の律令国家を支えた財政制度「出挙(すいこ)」と同様の仕組みが百済に存在し、記録の方法も日と同じであることが分かった。 百済の都だった扶余で、今年4月に木簡6点が発見された。周辺には役所が並んでいたと推定され、木簡の1点に税の収納を担当した役所の「外椋部」の名があった。木簡は長さ約30センチで「貸記」と表題があり、618年のもの。日は飛鳥時代で聖徳太子の時代に当たる。国立歴史民俗博物館の平川南館長(日古代史)、早稲田大の李成市教授(朝鮮古代史)らが解読し、百済が国庫に持つ稲の種もみを運用した「出挙」の記録と判断した

  • 古代と高速 共存 : 景 空から : 九州発 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)

    緑の広場に丸や四角、それに丘のような形をした遺構が展開している。熊県城南町にある国指定史跡の「塚原古墳群」。南北に貫く九州自動車道の上にドンと“鎮座”し、古墳時代(3世紀半ば〜7世紀末)の風景をよみがえらせている。 同町歴史民俗資料館によると、江戸時代に書かれた「肥後国誌」に「塚原ニ、九十九塚アリ」と記述され、古墳群の存在は古くから認知されていた。深く長い眠りについていた1972年、高速道路建設に伴う発掘調査で一気に注目を集めることになった。 さまざまな形をした計102基もの古墳が次々に出土。ツボやカメなどの副葬品から4〜6世紀の200年にまたがる貴重な古墳と分かり、文化庁、県、町、高速道路事業を担う道路公団とも大騒ぎになった。同町教委参事の清田純一さん(52)は「最終的には古墳群を保存したまま、トンネルにして道路を通すことが決まった。古墳の数は204基確認されており、かけがえのない古代

  • 忘却の淵に沈んだ銅鐸 - hoshikuzu | star_dust の書斎

    で記録に残っている最古の銅鐸発掘は以下のようなものであったという。天智天皇の時代に崇福寺の建立(近江国志賀郡)にあたって偶然に白い玉状の石が土中からみつかり、さらに掘ってみたところ銅鐸が発見された。天智天皇は新しい都の建設に熱心であったおりでもあり、通常であったらこの銅鐸の発見は瑞なものとして喜ばれてしかるべきであったのだがこれを一切無視したようだ。あるいは、悪いことが起きる前触れとも考えられてかもしれないし、あるいは、そもそも銅鐸がいったいなんなのかをまったく理解していなかったのかもしれない。 いずれにせよ、かつて弥生時代に銅鐸文化の中心であった近畿圏に、大和政権の天智天皇が依拠していたにもかかわらず、掘り出された銅鐸をまったく評価していないこと、これはまったく不思議なことではある。 わずか数百年のうちに忘却の淵に埋まってしまった銅鐸文化の運命を考えるとなにやらゾクゾクする。当に大

    忘却の淵に沈んだ銅鐸 - hoshikuzu | star_dust の書斎
  • 藤ノ木古墳 花粉が語る被葬者像 穴穂部皇子と宅部皇子か 夏のベニバナ供花、6月暗殺一致 (1/2ページ) - MSN産経ニュース

    藤ノ木古墳 花粉が語る被葬者像 穴穂部皇子と宅部皇子か 夏のベニバナ供花、6月暗殺一致 (1/2ページ) 金銅製の冠など豪華な副葬品の発見で知られる奈良県斑鳩町の藤ノ木古墳(国史跡)の石棺に納められた2体の被葬者が、聖徳太子の叔父で蘇我馬子に暗殺された穴穂部(あなほべの)皇子と、宣化天皇の皇子ともされる宅部(やかべの)皇子の可能性が極めて高いことが、石棺から出土した大量のベニバナ花粉の研究で分かった。夏に咲くベニバナが死者を弔う供花として納められたとみられ、日書紀が記す587年6月の暗殺時期と一致した。石棺に残されたミクロの花粉が、被葬者像を絞り込む興味深い成果として注目される。 同古墳は直径約50メートルの円墳で、石棺は盗掘を受けておらず、昭和63年の発掘調査で金銅製のやガラス玉で装飾された大刀、2人の被葬者の人骨などが埋葬当時の状態で見つかった。 石棺内からは、大量のベニバナの花粉

  • 国府物語

    古代のメトロポリス「国府}を訪ねて、写真と紀行文で紹介する。国府政庁、国分寺、総社などの写真とともに、その地にまつわる歴史的エピソードが豊富に載せられ、歴史好きにはたまらない。

  • 考古学のおやつ

    新着情報・更新履歴・管理者近況 さるよい日記 現説編年表・展覧会編年表・研究会編年表に情報追加。(28/Apr/2023) ニュース きまぐれNEWSLINK イベント編年表 考古学イベント検索 現説編年表 / 展覧会編年表 / 研究会編年表 Twitter情報提供は「#考古学のおやつ」をつけたツイートで

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