これまでの政党・政治団体の歴史の中で、民間企業であれば当たり前に行われる筆記試験というプロセスがなかったこと自体が異常だったのではないでしょうか。
京都市の小さな寺にある、江戸時代のものと思われていた仏像が、実は、仏教が日本に伝来して間もない頃に朝鮮半島で作られた極めて貴重な仏像の可能性が高いことが、大阪大学などによる最新の調査でわかりました。専門家は「こうした貴重な文化財は、ほかにも埋もれている可能性がある」と指摘しています。 この仏像について、大阪大学や東京国立博物館の研究者が改めて鑑定したところ、額に刻まれた模様や装飾品の龍のデザインなどが6世紀から7世紀ごろに朝鮮半島で作られた仏像や出土品の特徴と一致していました。さらに、仏像にX線を当てて金属の成分を詳しく調べた結果、銅がおよそ90%、スズがおよそ10%で鉛はほとんど含まれていませんでした。こうした割合は日本や中国の仏像にはなく、7世紀ごろに朝鮮半島で作られた仏像である可能性が極めて高いことがわかったということです。 この時代は、日本に仏教が伝わってまもない時期に当たりますが
豊臣秀吉像(模本、東大史料編纂所蔵)後藤又兵衛の討ち死にの様子を2回にわたって書きましたが、これは慶長20(1615)年の5月6日、大坂落城の2日前の道明寺の戦いでのことです。夏の陣では外堀を埋められたため、大坂方は城外で戦わざるを得なかった。幕府の大軍は河内方面と大和方面から迫ってきます。 このうち大和方面軍は水野勝成を先鋒(せんぽう)とし、家康の六男の松平忠輝、忠輝の舅(しゅうと)の伊達政宗、本多忠勝の嫡男の忠政など総勢3万4千あまり。その軍勢が河内平野に入ってくるところを、狭隘(きょうあい)な地で待ち受け、たたこうとした。それが道明寺の戦いです。 大坂方の武将はというと、先鋒として後藤又兵衛、後詰めが毛利勝永や真田幸村など。兵力は1万8千と言われています。彼らは5日に河内の平野に集結し、同日の夜にその地を次々に出発。次の日の明け方、道明寺に再び集結して、幕府軍を迎え撃つ手はずでした。
弥生時代から始まる集落遺跡で、のちに藤原氏となる有力豪族・中臣(なかとみ)氏の拠点ともされる京都市山科区勧修寺西栗栖野町の「中臣遺跡」から、7〜8世紀ごろの建物のものとみられる柱穴跡の列が出土し、民間調査会社「京都平安文化財」が地元住民対象の説明会で公開した。 同遺跡は弥生時代から古墳時代を中心にした洛東最大の集落遺跡。今回は、宅地造成に伴い130平方メートルを調査した。 この結果、直径30〜70センチの柱穴跡の列が3列分、計10カ所で出土。柱間は約1・2メートル。出土した土器などから、大化の改新で中臣鎌足が活躍した時代を含む7〜8世紀ごろとみられ、柵列か建物の可能性があるという。同様の規模の柱穴跡は周辺のこれまでの調査でも確認されている。 このほか、古墳時代に建物を建てるために他の地から運んできた土で造成した痕跡、弥生時代の土器なども出土した。京都平安文化財は「中臣遺跡の様相を知る手がか
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