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2017年1月9日のブックマーク (3件)

  • きっかけは「神風」でも 1日でなく7日ほどで撤退した元寇・蒙古襲来の実態 - 歴史ニュースウォーカー

    1274年(文永11)、モンゴル皇帝フビライは国号を元と改めて日に朝貢を求めてきました。 しかし、鎌倉幕府はこれを拒否。2度にわたる元寇(蒙古襲来)が起きます。 一般的には 1回目の文永の役は博多湾に上陸した元軍が神風で撤退 2回目の弘安の役(弘安4年=1281年)では佐賀県の伊万里湾に集結した元軍が2度目の神風で壊滅 とされています。 ところが、この常識が、近年の水中考古学や文献史学でも服部英雄氏の研究により覆されています。 おそらくこうした研究成果をもとに、朝日新聞の「文化の扉」というインフォグラフィックのコーナーで、考古学者でもある宮代栄一記者が「勝因は神風ではなかった?」として書いています。 www.asahi.com 「おそらく」というのは、無料会員だと1日1記事しか読めないため、現時点で中身を知らないからです。。。 しかし、恵美嘉樹もちょうど2016年10月号の「ひととき」(

    きっかけは「神風」でも 1日でなく7日ほどで撤退した元寇・蒙古襲来の実態 - 歴史ニュースウォーカー
    emiyosiki
    emiyosiki 2017/01/09
    書きました
  • 『おんな城主 直虎』感想レビュー第1回「井伊谷の少女」 何かが珍妙「生ハムメロン」のような味を受け入れられるか

    こんばんは、武者震之助です。今年も一年よろしくお願いします! 『真田丸』が放映されないことで喪失感を覚えている方もおられることでしょうが、大河のロスを癒やせるのは新しい大河しかございません。 乱世に生き、翻弄され、それでも家を存続させた井伊直虎の一生を追っていきましょう。 今川への従属でいきなりダメージをらう井伊今年は真田信繁のように、皆が知っている人物ではありません。そこで、スタート時点で井伊家の背景がざっとナレーションで説明されます。昨年はいきなり武田家滅亡寸前というところから始まってもよかったのですが、今年はそうはいかないワケです。 ここで、井伊家が今川家に従属する過程において、大きなダメージを受けたことに注目してください。 甲冑姿で血にまみれた井伊家の男たちが、悔しそうな表情をしております。昨年の真田家は生き抜くためにすすんで武田家に従属しました。そしてその武田家が滅びるまでは順

    『おんな城主 直虎』感想レビュー第1回「井伊谷の少女」 何かが珍妙「生ハムメロン」のような味を受け入れられるか
    emiyosiki
    emiyosiki 2017/01/09
    天白磐座遺跡が冒頭に登場したから古代史ファンとしては満足
  • 勝因は「神風」ではなかった? 「元寇」に新たな見方:朝日新聞デジタル

    モンゴル帝国(元)の襲来を、鎌倉武士が2度にわたってい止めた「元寇(げんこう)」。文永の役(1274年)、弘安の役(1281年)とも長年、暴風雨(神風)が勝因とされてきたが、近年、新たな見方が浮上している。 今まで「元寇」はおおむね次のような経緯だったとされてきた。 1274(文永11)年、900隻、4万人の元軍が対馬と壱岐を攻略。鷹(たか)島(長崎県)上陸後、博多湾まで進出したが、暴風雨に遭い退却(文永の役)。 続く1281(弘安4)年、朝鮮発の東路軍と中国発の江南軍の4400隻、14万人が攻め寄せたが、日側の防戦で一時撤退。さらに鷹島に停泊中の船団を暴風雨が襲ったため、退却(弘安の役)。その後、皇帝フビライは3度目の日遠征を計画したが、亡くなったため、沙汰やみとなった。 危機に大風が吹き、異国の敵が追い払われたことから、2回にわたる暴風雨は「神風」といわれ、第2次世界大戦中には、

    勝因は「神風」ではなかった? 「元寇」に新たな見方:朝日新聞デジタル
    emiyosiki
    emiyosiki 2017/01/09
    関連記事かきました→「きっかけは「神風」でも1日でなく7日ほどで撤退した元寇・猛攻襲来の実態」http://emiyosiki.hatenablog.com/entry/2017/01/09/095519