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「本当は、できるでしょう?」の原初的風景 - G★RDIAS「し(たく)ない」ことを「出来ない」とい... 「本当は、できるでしょう?」の原初的風景 - G★RDIAS「し(たく)ない」ことを「出来ない」という言葉でごまかすなって話だと思うんだけど、この例を成り立たせている理屈でどんどん突き詰めていくと、誰もが何かを選択する/しないだけで(すべてのことに関心を払えるわけでないので)他の人を踏みつけている、間接的には他人を見捨てて殺しているってな話になるんじゃなかろうか。それこそ「人は生きてるだけで罪人」みたいな感じになってくる。たしかに何かを選択しながら生きていくことにはそういう一面はあると思う。そういうのを折に触れて「自覚して生きる」というのは大切かもしれない。ほんとは「したくない」だけなのになんだかんだと「出来ない」理由を捏造して自分に言い訳してることもよくある話だ。自分はある行為を「しなかった」。そのことから生じる責任ってのはまったくないとは言えない。コンビニでお菓子を買うか募金するかの例
2007/04/11 リンク