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「無主地先占論」をめぐって - heuristic ways
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「無主地先占論」をめぐって - heuristic ways
宮崎正勝『黄金の島 ジパング伝説』と佐々木史郎『北方から来た交易民』に、それぞれ無主地の先占をめ... 宮崎正勝『黄金の島 ジパング伝説』と佐々木史郎『北方から来た交易民』に、それぞれ無主地の先占をめぐる記述が出てくるので、メモをとっておくことにする。宮崎氏の本によると、オランダ東インド会社が蝦夷地のある北方海域での「金銀島」探索を行なったのは、1639年と43年の二度に及ぶ。これは時あたかも、徳川日本が1633年の第一次鎖国令から39年の第五次鎖国令(ポルトガルとの断交)によって鎖国体制を急速に整えていく時期に当たり、オランダ東インド会社にとって「先が読めない時期」だったと宮崎氏はいう。この時期は、川勝平太氏の『日本文明と近代西洋』によると、「イギリスとオランダの覇権争い」が世界をまたにかけて行なわれた時期でもあり、アメリカではイギリスに有利、アジアではオランダに有利に展開した。「アジアのイギリス勢力は一六二三年のアンボイナ事件によって大打撃を受け、一六八二年にはついにバンタムからも追われ