エントリーの編集
エントリーの編集は全ユーザーに共通の機能です。
必ずガイドラインを一読の上ご利用ください。
国学的言語論の彼岸にあるもの - 岩根卓史のピヨピヨ日記
記事へのコメント0件
- 注目コメント
- 新着コメント
このエントリーにコメントしてみましょう。
注目コメント算出アルゴリズムの一部にLINEヤフー株式会社の「建設的コメント順位付けモデルAPI」を使用しています
- バナー広告なし
- ミュート機能あり
- ダークモード搭載
関連記事
国学的言語論の彼岸にあるもの - 岩根卓史のピヨピヨ日記
研究 1 「国学」の回帰と〈将来〉の創造 本章では、幕末に展開された、俗に〈言霊音義派〉と名指しさ... 研究 1 「国学」の回帰と〈将来〉の創造 本章では、幕末に展開された、俗に〈言霊音義派〉と名指しされた国学者たちを分析するのであるが、前提作業として、彼らの思想に共鳴した、代表的アカデミシャンの一人である、時枝誠記の「国学」をめぐる言説を若干検討するところから始めよう。良く知られているように、彼は「国語学」という学知において、山田孝雄と並んで、戦後日本に最も影響力があった人物である。いま本稿が問いかけるのは、時枝の「国学」という言説はどのような視座で語られ、解釈され、表象されるのか、というその言辞のあり方にある。周知のように、時枝は近年の国民国家論の文脈から、様々な角度で批判がなされている。確かに時枝が主唱した学説である、「言語過程説」と国民国家との関係性や、植民地の問題は、これからも問われるべき課題としてあるだろう。しかしながら、ここではあえて立ち入らず、時枝が「国学」へ向けた〈知〉の可