エントリーの編集
![loading...](https://b.st-hatena.com/bdefb8944296a0957e54cebcfefc25c4dcff9f5f/images/v4/public/common/loading@2x.gif)
エントリーの編集は全ユーザーに共通の機能です。
必ずガイドラインを一読の上ご利用ください。
歌における〈今〉の世と〈危機〉の言説―『国歌八論』という思想空間― - 岩根卓史のピヨピヨ日記
記事へのコメント0件
- 注目コメント
- 新着コメント
このエントリーにコメントしてみましょう。
注目コメント算出アルゴリズムの一部にLINEヤフー株式会社の「建設的コメント順位付けモデルAPI」を使用しています
![アプリのスクリーンショット](https://b.st-hatena.com/bdefb8944296a0957e54cebcfefc25c4dcff9f5f/images/v4/public/entry/app-screenshot.png)
- バナー広告なし
- ミュート機能あり
- ダークモード搭載
関連記事
歌における〈今〉の世と〈危機〉の言説―『国歌八論』という思想空間― - 岩根卓史のピヨピヨ日記
研究 興味のある方はダウンロードして下さい。 1.問題への視座―「歌学史」が〈意図〉するもの 本稿にお... 研究 興味のある方はダウンロードして下さい。 1.問題への視座―「歌学史」が〈意図〉するもの 本稿において、次のような問いを立てることは無駄であろうか。すなわち作者が、あるテクストの記述の〈始まり〉には、いかなる特権的な意味が付与されるのか。そして、作者はそれをどのように〈書き始める〉のか。本稿の主題は、言うまでもなく、『国歌八論』と呼ばれる歌学テクストである。しかしながら、『国歌八論』というテクストと、書記行為としての〈始まり〉には、どのように関連しているというのか。エクリチュールにおける〈始まり〉(beginnings)を考察するために、エドワード・サイードの『始まりの現象』を参照してみよう。 つまり、始まりというのは基本的には、単純な直線的成就であるよりはむしろ、回帰と反復とを究極的に内意している活動であるということ、始まりや始まりの反復は歴史的なものであり、他方始原は神的なものであ