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藤原安紀子「ヲカタ カタン」、文月悠光「無名であったころ」、安田雅博「製材所の跡地」 - 詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)
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藤原安紀子「ヲカタ カタン」、文月悠光「無名であったころ」、安田雅博「製材所の跡地」(「現代詩手... 藤原安紀子「ヲカタ カタン」、文月悠光「無名であったころ」、安田雅博「製材所の跡地」(「現代詩手帖」2014年12月号) 藤原安紀子「ヲカタ カタン」(初出「びーぐる」25、2014年10月)は何が書いてあるのかわからない。タイトルが何語なのかもわからない。 みちのくわ地にまき来る よほう師の群れをみると ぼくはたってねむる 均等に 丘ごもり するためだ 書き出しの2行だが、読んで情景が浮かぶのは「ぼくはたってねむる」。主語、述語のつながりが納得できるからである。 ただし、「意味」は「わかった」とは言えない。直前の「よほう師の群れをみると」の「みると」は「見る」だと思うのだが、「見ると」「ねむる(眠る)」が対立(?)する動詞なので、私は悩んでしまう。 「見る」のをやめて「眠る」のか。 「みる」と「ねむる」の関係、切断/接続がわからない。「ねむる」と次の「丘ごもり」の「こもる」は「接続」がわ