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旧武田家臣の末裔・柳沢吉保はどうやって江戸幕府で出世したのか
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旧武田家臣の末裔・柳沢吉保はどうやって江戸幕府で出世したのか
江戸幕府――特に中期の将軍には、それぞれ一人ずつ「相棒」と呼ぶべき重臣が存在します。 「側用人」や「... 江戸幕府――特に中期の将軍には、それぞれ一人ずつ「相棒」と呼ぶべき重臣が存在します。 「側用人」や「御用取次」など。その時々によって役職名こそ違いますが、将軍にとっての印象は同じようなものでしょう。 その最初の一人といえるのが【柳沢吉保】。 五代将軍・徳川綱吉の側用人だった人物で、正徳4年(1714年)11月2日が命日です。 よしながふみ先生の「大奥」では、なかなか業の深い役どころでしたので、名前を覚えている方もいらっしゃるのでは? では、元ネタになった実際の吉保は、どんな生涯を送ったのか。 順を追ってみていきましょう。 武田家滅亡で徳川に召し抱えられる柳沢吉保の「吉保」とは、後半生に綱吉から「吉」の字を賜り、名乗ったものです。 本稿では、わかりやすさを優先し、最初からこの名で統一させていただきます。 吉保の遠い先祖は、河内源氏(源頼朝や足利尊氏らで有名な家柄)の支流で、武田氏の一門だった