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岡野憲一郎のブログ:気弱な精神科医 Ken Okano. A Blog of an insecure psychiatrist: あきらめと受け入れ(4)
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岡野憲一郎のブログ:気弱な精神科医 Ken Okano. A Blog of an insecure psychiatrist: あきらめと受け入れ(4)
あきらめや受け入れの問題は、究極的には、老いと死の問題に結びつく。あきらめの最終形態は、自分とい... あきらめや受け入れの問題は、究極的には、老いと死の問題に結びつく。あきらめの最終形態は、自分という存在の消滅、すなわち死を受け入れることである。ただしその前に必然的に生じるのが、自分の持っている身体能力、健康、認知能力、若さと美貌、財産、友人、家族を一つ一つ失っていく過程である。生きるということはある意味では非常に残酷である。体力や知識や経験を獲得していく期間はある意味では夢中であり、またそれなりの苦痛を伴う。しかしふと一息ついたときには、すでに人生は下り坂なのである。あとは経験や社会的な地位はある程度は増していくかもしれないが、それ以外のことについてはことごとく失われていくのだ。私が興味深く思うのは、この老いと死の問題は、おそらく私たちの思考の中から、あるいは精神療法のテーマとして常に抑圧され、忘れられているということである。フロイトは私たちが抑圧するのは性的ファンタジーや攻撃性だと考え