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まなざしの論理 theory of Eyes/ 山本哲士「哲学する日本」を読むno.7-芸大講義ノート
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レクチュール・レッスン=非自己の視線/浸透と緊張◎GAIDAI lecture-note テーラー・システムによる情報... レクチュール・レッスン=非自己の視線/浸透と緊張◎GAIDAI lecture-note テーラー・システムによる情報生産★ 3.11以後、四ヶ月が過ぎた。今年の一月元旦の記憶さえ20世紀の出来事のなかにうすれ、遥か昔のことになった。明らかに21世紀の歴史は刻々と前に踏み出している。しかしTVキャスターの声が何故か現実味がない。遥か昔、20世紀のヴィデオ映像のように感じられる。TVは意図的に編集され限定された映像を見せながら、現実を隠すメディアになってしまっている。報道と広報と広告の差異をなくし「隠される現実、はぐくまれる幻想」のスペクタクルに開き直るメディア。女優気取りの女子アナが、政治・経済・芸術・芸能・スポーツをわけしり顔で喋っている。TV。 TV主体と語る自己を同じくする私がプロとして演じる。TVの労働が、女子アナに主体と自己と私を同一化する技術を強いている。TVという映像の技術-