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私が生まれ育ったのは神奈川県の西のはし、静岡県との県境に近い真鶴という、人口6千ほどの港町である... 私が生まれ育ったのは神奈川県の西のはし、静岡県との県境に近い真鶴という、人口6千ほどの港町である。地図を見ると、相模湾の西に小さな岬が突き出している。その岬に抱かれた町である。1936年生まれだから、敗戦のときは小学校4年生。戦中・戦後の一番混乱していた時代である。勉強した思い出はまったくない。親も子も、その日その日を、どう凌いでいくかで精一杯で、勉強どころではなかった。自分がいつか、大学生になるなど思っても見なかったのである。 私の父は、典型的な明治生まれの苦学少年で、高等小学校を卒業して上京、中学校に入学したり、鉄道教習所に入ったりしたようだが、母(それも義母一人子一人の家庭では続かず、挫折して新聞社の印刷工になり、そこでマルクス青年になってやがて失職、郷里に戻って魚関係の商売をしていた。といっても商売不熱心、実際には助産婦の資格をとって開業していた妻、つまり私の母に生計をおんぶして