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大谷翔平
note.com/gotch_akg
総集編の映画の公開に合わせて、というか、アニメが放送/配信されてからずっと、25年以上続いているアジカンの古い楽曲や歴史を追ってもらえて率直に嬉しい。結成から一度も止まらずにバンドは転がり続けているけれど、ポップミュージックはユースカルチャーとしての側面もあるから、当時の中高生や同世代と共に俺たちも年を重ねて、アジの缶詰なのか密教の瞑想法なのか、誤解や興味の端っこはおろか若い世代に発見されなくなっていくのも仕方がないことだと思う。 しかしながら、前述したように、バンドも俺たちの人生もアラフィフなりに全力で転がり続けていて、有名になりたいという欲求はもともと薄いけれど、音楽を聴いてもらいたいという気持ちはいつでもしっかり持っている。ネットには配信サービスによって無限と呼んでもいいくらいの楽曲の海が広がっていて、そこには毎週数千曲の新曲がアップされ、過去の膨大な名曲たちをいつでも聴くことができ
15日。 エンジニアの仕事をしてみて分かるのは、ミュージシャンは「やっておいて」と簡単に言ってはいけないし、エンジニアはすべての仕事をブラックボックスに入れてはいけないということ。作品の良し悪しと絶対的な相関関係があるわけではないが、お互いの仕事へのリスペクトだけでなく情報と技術のシェアが大事だと思う。メールでいろいろな要望を出していたら、すべてのプラグインやアウトボードを外したようなミックスが送られてきた経験がある。お互いの顔が見えないと、こういう仕事っぷりも可能になってしまう。エンジニアがミュージシャンのやりたいことのために使役されている現場はキツいし、一方で、ミュージシャンが何を言おうがエンジニアがフェーダーを動かそうとしない現場も辛い。誰の作品なのかというのは難しいところがあるけれど、上下関係のない意見の交換は大事だと思う。 16日。 般若心経についての話を聞いた。般若は智慧であり
11日。 楽しいことや面白いことは日々の生活や活動のなかにいろいろあるけれど、全体が暗い膜に包まれているような気分が続いている。ガザでは、必要とは思えない攻撃と虐殺が行われている。圧倒的な非対称性で、パレスチナの人々が虐げられている。多くのユダヤ教徒も世界中で声を上げている。しかし、世界はまったく動かない。それとは別に生活上のあれこれは迫ってくる。引き裂かれるような気持ちだ。 12日。 下北沢の某喫茶店のトイレに入ったところ、ウォシュレットの水が止まらなくなってしまって大変に焦った。最初から、菊の門にぴったりアジャストしていないというか、人間の構造的にそんなに後ろに菊の門があるはずがない、というところに水があたったので、おかしいなとは思った。それからはソフトもムーブも全部効くのに、止まるのボタンだけが機能しなかった。これでは大事なところが長風呂をしたときの指先のようにふやふやになってしまう
5日。 施術が終わった帰り際、鍼灸院の入口のガラスに思いっきり頭をぶつけて恥ずかしかった。こういう場合、特に急いでいるわけでもないのに、1秒でも早くこの恥ずかしい現場から離れたいとも思っていないのに、そう思っているかのような身体の動きになってしまう。とても不思議だ。そういえば、人間は身体を脳が止めるている構造なのだという文章を読んだことがある。脳より身体が先だなんて。 6日。 イヤーマフを手に持って原宿のオシャレなビルの屋上で佇むという謎撮影があった。イヤーマフの装着が普及して、子供たちの聴力が守られるのは嬉しい。こうした情報を拡散するのに協力したい気持ちもたっぷりと持っている。しかし、髭メガネのおじさんがイヤーマフを片手にビルの屋上で佇んでいたとしたら、通報されるだろう。「笑ってください」と言われたが、笑っていたら余計にヤバいと思う。 7日。 疲れてきたら餃子の王将へ行き、うま味調味料に
FUJI ROCK FES.から、約ひと月の時間が過ぎました。 FUJI ROCK FES.由来の大きなクラスター発生のニュースが届いていないことについては、少しずつ息を吐き出すように安堵しています(参加者の追跡調査に課題があることは理解しています)。 現在に至っても、胸を張って当時の自分の判断を肯定することはできません。コロナ時代のフェスの開催にひとつの先例ができたことは、フェスの側に立てば大きな前進かもしれませんが、感染者の増加がピークを迎えるような状況で人流を増加させる催しが行われること、世間的には強行のようなかたちに見えていたこと、そのリスクを懸念しつつもフェスに参加したことなど、自分のなかにある割り切れない思いは抱えたままでいます。 どんな言葉を発するべきだったか。あるいは黙ってステージに立って自分の役割にだけ徹するべきだったのか。フェスが終わってからも、分断の先頭に立ってしまっ
アジカンが大阪城ホールでのイベントが終わった。このイベントが、この夏にアジカンが参加した唯一のフェスということになった。 ネット上では、このイベントを叩いている人をほとんど見かけない。だからといって、安心とはいかない。ステージ上でも話したが、参加者たちは無事に帰れただろうか。いつかまた、何ひとつ緊張することなく、後ろめたさを抱えることなく、楽しめる場所で会いたいというのは心の底から思っていることだ。 次はフジロックだ。もちろん、意気揚々とはいかない。依然として、心身の大部分をグワグワが締めている。 俺はエセタイマーズというバンドの一員として「忌野清志郎 Rock’n’Roll FOREVER」に参加する。このバンドはタイマーズというバンドの偽物だ。偽物ではあるが、彼らをリスペクトし、精神を引き継いでいるつもりだ。 アジカンは出ない。けれども、仮にどこかのステージにブッキングされていたならば
「フジロックはネームこそ大きいが巨大な自治だ」とマヒトは綴る。フジロックはそういう場所だ。主催が必要以上のルールを設けずに、観客たちが場内で働くスタッフたちと共に育ててきたフェスでもある。ゆえに、個人情報の提供まで求める今年の感染症対策における無数のルールには驚く。 アーティストとスタッフには2度のPCR検査(直前の検査は抗原検査でした。申し訳ありません。)が義務づけられている。陽性ならばもちろんのこと、検査の提出を忘れた場合でも入場できないという大変厳しいルールが敷かれている。検温以外で、このような検査が義務付けられたフェスは経験がない。 随分とフジロック側に立った言葉だと思うかもしれない。実際にそういう甘さが自分にはないとは言えない。しかし、彼らの努力は周知されてもいいと思う。それとは別に、開催そのものの是非や感染症対策の方法についての議論は、自由に行われるべきだとも思う。 何かを書か
タイトルの文章は荒井裕樹さんの『障害者差別を問いなおす』のなかで引用された、横塚晃一さんの『母よ!殺すな』からの言葉。本文から、もう少し長めにここに引く。 障害者は現代社会において、被差別的で被抑圧者なのです。今までのボランティア活動は、このような人達を「かわいそうな人達」あるいは「不幸な人達」と呼び「だから私達が何かやってあげるのだ」ということだったと思います。しかし、これは大変な心得違いです。なぜなら我々を、不幸な、恵まれない、かわいそうな立場にしているのは権力であり、今の社会であります。その社会を作っているのは他ならぬ「健全者」つまりあなた方一人一人なのです。 (『母よ!殺すな』一四一〜一四二頁) 荒井裕樹 著『障害者差別を問いなおす』(p.92) 差別を語るとき、僕たちは自分を問題の外に置いてしまうことがある。差別自体が、この社会の構造(それは、僕たちそれぞれが差別についてどう考え
率直に言って、とても残念だ。ほとんど空白とも言える2020年を経て、また、大きな緊張を抱えて臨んだゴールデンウィークのフェスを乗り越えて、少しずつコロナ禍の先に新しい日常を見出すための、はじまりの季節だと、この夏を捉えていた。 当時の逡巡についてはこちらの投稿を読んでほしい。音楽関係者の困惑や憤り、そして努力についてもここに書いた。 ロッキンオンの渋谷陽一が言うように茨城県の医師会の要請は曖昧ではあるが、懸念自体は間違ったものではないと俺は思う。一方で、規模も影響も桁違いのオリンピックに対して、「要請を出す時期でも案件でもない」と雑誌の質問に医師会が回答した件については、違和感がある。我が県以外の未来の罹患者については関係がないとするかのような物言いは、医師の態度としてどうなのかと素朴に思う。医師とは、どういう倫理観を持つ職業なのだろうか。 医師の助けなくしてロックフェスの開催が危ういこと
この一週間強で味わったジェットコースターに乗っているかのような逡巡を言葉にせず、ロックフェスに参加するのは不誠実ではないかと思い、ここに率直な自分の気持ちを記そうと思う。 はっきり書けば、今から参加するJAPAN JAMという野外フェスへの参加に「何の迷いもない」とは言い切れないです。感染症の拡大(無症状の人たちがウイルスを拡散する懸念を含めて)や医療現場の逼迫、休業に追い込まれた様々な業態を考えれば、「なんとかフェスがやれてよかったですね」とは到底言えない。 ただ、外部のスタジオをレンタルして行っていたリハーサルの最中に緊急事態宣言が持ち上がり、自分たちですらリハーサルに費やした時間や費用や意味について考え込んだわけだけど、コンサートやフェスの現場に関わる人たちが費やした様々な時間やコストや心情を考えると、「中止が妥当ですよね」とも言えない。去年から続く長い自粛や、状況に合わせた様々な対
選評に関する批判をたくさんいただいています。10作の選出から賞の決定にいたるまで、主催である僕の責任です。真摯に受け止めます。 賞を盛り上げるためのラジオ特番でも僕は失礼な発言をしています。謝罪のブログの経ての選考会でしたので、妙な距離感を産んだのは僕の責任です。 受賞出来なかったのが不当とはまったく思わないけども、論評はノミネートされてる他の作品と比べても波風立たないように妙な距離とってる感じはある 俎上にあげといてその言い草はないんじゃないかな 目の前の作品を語る言葉を持ててなかったのは作品のせいではないでしょう 難しい話でもあるまいし pic.twitter.com/c0ZQnq1DQl — 蔡忠浩 (@bonobos_sai) April 11, 2021 僕は今でも『Passport & Garcon』を語るのに緊張します。Moment Joonが撃っているのは、僕自身でもあると
Moment Joonの『Passport & Garcon』について、音楽的な視点の話も少し追記させてください(申し開きともいう)。 彼が「HIP HOPアーティストであること」については、疑いの余地が1ミリもありません。放送のなかで「HIP HOPの外側からの言葉」というようなことを言いましたが、それは「彼はHIP HOPのアウトサイダーだ」という意味ではないんです。 「俺こそがど真ん中である」というラッパーとしての矜持。それとは別に相対的な「ど真ん中」というのがおそらくジャンルにはあって、HIP HOPの真ん中がどこなのか判断する物差しを僕は持っていません。ロックであれ、HIP HOPであれ、どんなジャンルでも「真ん中」は常に関わる人たちの様々な想いの総体であり、時代によってうつろう共同幻想みたいな場所なのではないかと感じます。そういう意味では空洞なのかもしれません。「ない」のかも。
FM COCOROの特別番組で、Moment Joonの『Passport & Garcon』というアルバムを紹介しました。僕が主催している『APPLE VINEGAR -Music Award-』という音楽賞の特集で、今月はノミネート作品を紹介させてもらっています。 その番組の中で、Moment Joonの紹介、アルバムの紹介のときに、僕はとても失礼な紹介の仕方をしてしまいました。放送を自分で聴きなおしましたが、とても粗末な内容だったと思います。 彼の新しいアルバムは、いくつかのフレームの内側と外側をめぐるストラグルが身を切るように綴られています。辛辣な言葉もありますが、様々なリリックが「TENO HIRA」というラストトラックの最後のHOOKに向けて、フレームやジャンル分け、偏見やラベリングの前に立つ人たちを優しく包み、そっと傍に立つようなフィーリングに回収されて光るような、そんなエン
Choose Life Projectの番組「Don’t Be Silent #変わる男たち」についてのコメントや引用RTを片っ端から読みました。 2月9日20:00〜緊急配信Vol.2!Don’t Be Silent #変わる男たち 🙋♂️🙋♂️ 東京五輪パラ組織委員会の森会長の女性蔑視発言を受けて配信した「Don't Be Silent #わきまえない女 たち」に続く番組です!連帯し、この社会を変えてきましょう。#変わる男たち による呼びかけです。 https://t.co/SRddOeYYFn pic.twitter.com/6EoWgzS0iB — Choose Life Project (@ChooselifePj) February 8, 2021 Choose Life Projectで2月9日(火)20時から配信を予定していた「Don’t Be Silent #変わ
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