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言語文化の違いをどうするか --- 山中 淑雄
松井力也著『「英文法」を疑う』(講談社現代新書)は、日本語で考える日本人と英語で考えるガイジンと... 松井力也著『「英文法」を疑う』(講談社現代新書)は、日本語で考える日本人と英語で考えるガイジンとはしょせん議論がかみ合わないというのが一つのテーマであるが、そのあとがきには次のようにある。 日本語の自己とは相対的な自己であり、相手の立場や他者の視点、過去や未来へと、対象を捉えるたびにあちこちへと飛び回って、対象に同調、同化することでコミュニケーションを円滑にしようとします。そこではそのように飛び回る能力が高ければ高いほど価値があるとみなされることになります。他者に同調し、「人の身になって」「人の気持ちをよく察して」「相手を思いやって」行動する能力が美徳となり、過去に同調し、まるで今もそこにいるかのような錯覚を与える言語表現が美しいと感じられます。 一方、英語の自己とは絶対的な自己であり、ゼロから規定され、がっちりと現在に固定されています。自己がひとつの場所に固定されている言語文化なのですか
2013/07/29 リンク