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『碧血碑慰霊祭を知っていますか?』
歳三さんが戦死した明治2年5月11日の一週間後に 五稜郭は開城し、戊辰戦争は終結しました。 勿論、函館... 歳三さんが戦死した明治2年5月11日の一週間後に 五稜郭は開城し、戊辰戦争は終結しました。 勿論、函館の街中には、 激しかった戦況を物語るかのように 至る所に旧幕軍や新政府軍の戦死者の遺体が 放置されていました。 しかし、旧幕軍戦没者の亡骸に関しては、 埋葬し供養することが許されませんでした。 現在の暦で言えば6月末頃の初夏の気候の中、 亡骸の腐敗は進んでいったそうです。 それを見かねた柳川熊吉翁が、 子分たちとともに夜を徹して亡骸を埋葬したのです。 その後、その戦没者たちの供養の為、 榎本武揚ら旧幕軍幹部らが中心となって 明治八年の五月に立てられたのが、 碧血碑だということは皆様もご存知かと思います。 柳川翁はその後、碧血碑の番人となって生涯を送りました。 番人小屋は、現在の位置で言うと、 車道から碧血碑に上っていく山道の始まりのあたりに 建てられていたそうです。 歳三さんも後年、この碧
2011/11/07 リンク