エントリーの編集
エントリーの編集は全ユーザーに共通の機能です。
必ずガイドラインを一読の上ご利用ください。
徳川家康は意外に優しかった? 大名配置に見る、関ヶ原直後・豊臣滅亡前の“温情人事”
記事へのコメント0件
- 注目コメント
- 新着コメント
このエントリーにコメントしてみましょう。
注目コメント算出アルゴリズムの一部にLINEヤフー株式会社の「建設的コメント順位付けモデルAPI」を使用しています
- バナー広告なし
- ミュート機能あり
- ダークモード搭載
関連記事
徳川家康は意外に優しかった? 大名配置に見る、関ヶ原直後・豊臣滅亡前の“温情人事”
徳川美術館(愛知県名古屋市)所蔵の『徳川家康三方ヶ原戦役画像』。三方ヶ原の戦いでの武田信玄に対す... 徳川美術館(愛知県名古屋市)所蔵の『徳川家康三方ヶ原戦役画像』。三方ヶ原の戦いでの武田信玄に対する惨敗を終生忘れぬようにするため、家康自身があえてこのように苦虫を噛み潰したような顔に描かせた……との説が信じられてきたが、信憑性は薄いとされる。 大坂の陣以前は、秀頼に遠慮して西国不介入 慶長5(1600)年9月15日、徳川家康は関ヶ原の合戦で勝利した。 その後、家康は敗者の領地を召し上げ、勝者には軍功に応じて加増および転封で報いた。たとえば、福島正則は尾張清須20万石から安芸広島49.8万石へ。池田輝政は三河吉田15.2万石から播磨姫路52万石へ、いずれも2倍以上の大盤振る舞いである。 ただし、笠谷和比古氏によれば、この時、西国に転封となったのはいずれも外様大名、つまりは豊臣系大名で、譜代大名(つまりは徳川家臣)が京都以西に配置されるようになったのは、慶長14(1609)年を待たなければなら