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第51回 ベントン彫刻機の国産化① 三省堂の決断 | 「書体」が生まれる―ベントンがひらいた文字デザイン(雪 朱里) | 三省堂 ことばのコラム
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第51回 ベントン彫刻機の国産化① 三省堂の決断 | 「書体」が生まれる―ベントンがひらいた文字デザイン(雪 朱里) | 三省堂 ことばのコラム
昭和22年(1947)――太平洋戦争敗戦からの復興を目指し、日本の各業界が奔走していた時期、三省堂の専務... 昭和22年(1947)――太平洋戦争敗戦からの復興を目指し、日本の各業界が奔走していた時期、三省堂の専務・今井直一は、おおきな決断をした。それまでは門外不出として、自社の社員にすら関係者以外には非公開としていたベントン彫刻機の「公開」である。大日本印刷と協力し、ベントン彫刻機の国産機をつくることを決めたのだ。 三省堂のベントン彫刻機は、アメリカン・タイプ・ファウンダース(ATF)から輸入したものだ。戦前、日本国内でベントン彫刻機を所有していたのは、印刷局、凸版印刷(もとは東京築地活版製造所にあったもの)、そして三省堂だけであり、このうち印刷局のベントン彫刻機は大正12年(1923)9月の関東大震災で焼失してしまっていた。「ベントン彫刻機を有しているがゆえに、三省堂の印刷物はうつくしい」とまでいわれるほど、出版・印刷界で三省堂の存在感をおおきくした理由のひとつが、ベントン彫刻機の存在だった。