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渡島篤農ものがたり - 書痴の廻廊
篤農家という単語自体が死語となりつつある現下、藤田市五郎の姓名を記憶している日本人が果たしてどれ... 篤農家という単語自体が死語となりつつある現下、藤田市五郎の姓名を記憶している日本人が果たしてどれほどあるだろう。 北海道の農業を開拓したひとりだが、屯田兵ではないようだ。 それよりもずっと根が深い。 淵源は実に十八世紀、寛政元年時点にまで遡り得る。 徳川将軍は十一代目、家斉が治めるご時世で。――八五郎という人が、どうした事情に由るものか、盛岡藩領二戸郡から態々この地(渡島)にやって来て、荒れ地に鍬を打ち込んだ。 (『農具便利論』より、鋳鍬にて畑を耕す図) 以来由蔵、市五郎と、三代続けて土を掻く、「農」の家系を織りなして――。これだけ由緒を重ねれば、もはや地生えといっていい。 さて、藤田市五郎。 篤農家、開拓者なりと先述したが、具体的にはどんな仕事をやったのか。 肝心要のその点は、本人の口吻をそのまま引こう。 「…二十歳の頃から親父に代って村の会合等に出てをりました、其頃の事ですが函館へ盛に