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【村田兆治さん追悼】「次世代の実験台になる」…サンデー兆治の真実(2) - スポーツ報知
蒸し暑い東京とは随分違う。西海岸の風は乾いていた。83年8月20日。村田兆治と妻の淑子はロサンゼ... 蒸し暑い東京とは随分違う。西海岸の風は乾いていた。83年8月20日。村田兆治と妻の淑子はロサンゼルスに到着した。右肘の痛みは原因不明で、国内では完全な治療が望めない。それでも村田の「もう一度、マウンドへ」との思いは募るばかりだった。ロッテは親交のあるドジャースへ相談。同球団の医療担当を務めるフランク・ジョーブ博士の診察予約を取ってくれた。 空港には「アイク生原」こと生原昭宏が出迎えた。早大野球部出身。卒業後は亜大野球部監督を経て渡米し、ド軍のフロントに入った。翌日、生原は不安の中にいた村田を「ドジャースの試合を見に行こう」と誘った。シーズン中にメジャーを生観戦する機会があるなんて…。超満員のドジャー・スタジアム。兆治はグラウンドを見つめながら、ふとこう漏らした。 「投げたいなあ」 8月22日、初診察。村田夫妻はセンチネラ病院へとジョーブを訪ねた。あいさつを終え、村田は言った。「野球を続けた
2022/11/11 リンク