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山本雅夫 - Wikipedia
育英高等学校では1971年、夏の甲子園兵庫県予選で準々決勝に進むが、松本哲(松本匡史)を打の主軸とす... 育英高等学校では1971年、夏の甲子園兵庫県予選で準々決勝に進むが、松本哲(松本匡史)を打の主軸とする報徳学園に敗退。高校同期に川辺邦好がいた。 同年のドラフト6位で南海ホークスに入団。 1980年から頭角をあらわす。 1981年には主に一塁手として101試合に出場、規定打席には届かなかったものの打率.288、13本塁打を記録。長打力があり左投手に強く(左殺し)[1]、その後も左腕先発時にはスタメンに名を連ねることが多かった。 1983年オフに鈴木伸良との交換トレードで読売ジャイアンツに移籍。入れ替わりでロッテに移籍した同姓の山本功児の背番号44を引き継いだ。ここでも右の代打の切札として2年連続3割以上の打率を残し、存在感を発揮した。 1986年には打撃不振で出場機会が減り、同年オフに自由契約となり近鉄にテスト入団。 1987年現役引退。 引退後は不動産会社・大京に入社。同社の軟式野球チー