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後円融天皇 - Wikipedia
後円融天皇(ごえんゆうてんのう、旧字体:後圓融天皇、1359年1月11日〈延文3年12月12日〉- 1393年6月6... 後円融天皇(ごえんゆうてんのう、旧字体:後圓融天皇、1359年1月11日〈延文3年12月12日〉- 1393年6月6日〈明徳4年4月26日〉[4])は、日本の北朝第5代天皇[注 1](在位:1371年4月9日〈応安4年3月23日〉- 1382年5月24日〈永徳2年4月11日〉)[4][6]。諱は緒仁(おひと、旧字体:緖仁)。 後光厳天皇の第二皇子。母は左大臣広橋兼綱の養女の広橋仲子(崇賢門院、実父は石清水八幡宮の神職善法寺通清〈紀通清〉)[7]。仲子の実姉紀良子が生母にあたる室町幕府第3代将軍足利義満とは、従兄弟同士に当たる。 譲位後の永徳3年(1383年)には、配偶者にあたる三条厳子(後小松天皇生母)への傷害事件を起こしている[8]。 延文3年(1359年)、後光厳天皇の第二皇子として誕生。後光厳天皇は、兄の崇光上皇との間に皇位継承問題を抱えていたが、幕府や公卿らの支持を得て、第二皇子へ