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文章博士 - Wikipedia
文章博士(もんじょうはかせ)は、大学寮紀伝道の教官(令外官)。文章生に対して漢文学及び中国正史な... 文章博士(もんじょうはかせ)は、大学寮紀伝道の教官(令外官)。文章生に対して漢文学及び中国正史などの歴史学を教授した。唐名は翰林学士(かんりんがくし)。 概要[編集] 神亀5年7月21日(728年8月30日)の格において、明経道を補助する事(儒学以外の漢文の解釈)を目的として律学博士(後の明法博士)とともに設置された。当初は明経道の助博士に準じて正七位下相当とした。2年後の天平2年3月27日(730年4月18日)に明法生・文章生が設置されて事実上の独立した教科となった。 日本の律令法における学令は、唐の制度に倣って中国王朝の支配思想であった儒学を教える明経道を中心に置いた規定がなされ、文章博士はそれを補う目的で設置されたものであった。ところが、日本においては思想(明経道)や実務(明法道)よりも親しみやすい文学・史学への関心が高く、宝亀3年(772年)には淡海三船が大学寮の長である大学頭と文