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源行家 - Wikipedia
甥の源頼朝に決起を促したのも行家であるが、頼朝の麾下には入らず独立勢力を志向した。三河国、尾張国... 甥の源頼朝に決起を促したのも行家であるが、頼朝の麾下には入らず独立勢力を志向した。三河国、尾張国で勢力圏を築きつつあったものの、養和元年(1181年)、おなじく甥の義円らと共に尾張国の墨俣川の戦い、三河国の矢作川の戦いで二回に亘り平重衡ら平家方と交戦。壊滅的な敗北を喫し、頼朝のもとに逃れて相模国松田に住み着いた。しかし、頼朝に所領を求めるも拒否されたため対立、以降はおなじく甥の源義仲の幕下に走っている[注 3]。義仲の下では能登国の志保山の戦いに参加、上洛に当たっては伊賀方面から進攻し平家継と合戦を演じた[3]。 寿永2年(1183年)、義仲とともに入京、後白河院の前では義仲と序列を争い、相並んで前後せずに拝謁した。朝議の結果、勲功の第一が頼朝、第二が義仲、第三が行家という順位が確認され、従五位下・備後守に叙任されるが、義仲と差があるとして不満を述べ、すぐに備前守に遷任する。さらに平家没官