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燕王喜 - Wikipedia
燕王喜(えんおう き、生没年不詳)は、中国の戦国時代の燕の最後の君主(在位:紀元前254年 - 紀元前22... 燕王喜(えんおう き、生没年不詳)は、中国の戦国時代の燕の最後の君主(在位:紀元前254年 - 紀元前222年)。姓は姫または姞[1]、諱は喜。 燕王喜 父は先代の孝王。子に始皇帝の暗殺を謀ったことで有名な太子丹がいる。 生涯[編集] 孝王3年(前255年)、父の孝王が死去し、喜が即位した[2]。 燕王喜4年(前251年)、宰相の栗腹を趙に使者として送って友好を深めようとした[2]。しかし、この頃の趙は長平の戦いで秦の白起に大敗して40万の兵を失い、疲弊していた。帰国した栗腹の報告でそれを知った喜は、考えを改めて軍を趙に攻め込ませた。しかし、趙の名老将である廉頗に迎撃されて燕軍は大敗し、逆に国都の薊を包囲されて和睦せざるを得なくなる。その後、秦の圧力を受けて趙が押されると、再度攻め入るが敗れた。 喜は秦と友好関係を結んでおり、友好の証として太子丹を人質として差し出していた。丹は趙で秦王政(