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長享の乱 - Wikipedia
長享の乱(ちょうきょうのらん)は、長享元年(1487年)から永正2年(1505年)にかけて、山内上杉家の上... 長享の乱(ちょうきょうのらん)は、長享元年(1487年)から永正2年(1505年)にかけて、山内上杉家の上杉顕定(関東管領)と扇谷上杉家の上杉定正(没後は甥・朝良)の間で行われた戦いの総称。この戦いによって上杉氏は衰退し、伊勢宗瑞(北条早雲)を開祖とする後北条氏の関東地方進出の端緒となった。 発端[編集] 上杉氏と古河公方足利成氏との間で30年近くにわたって続けられた享徳の乱の間は上杉一門は一致協力して、成氏とこれを支持する関東の諸大名に対して戦いを続けてきた。だが、文明8年(1476年)、顕定の重臣長尾景春が顕定との確執から突如謀反の兵を挙げると、山内上杉軍は総崩れと化した。これを鎮めたのは同族の扇谷上杉家の家宰であった太田道灌(資長)である。 道灌の活躍で景春の反乱自体は鎮圧されたものの、関東管領である顕定と山内上杉家の権威は落ち込み、道灌の主君である扇谷上杉家の上杉定正の権威が高まっ