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武田信玄の西上作戦、目的は信長討伐ではなかった? 武田信玄〝西上作戦〟の真相(前編) | JBpress (ジェイビープレス)
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武田信玄の西上作戦、目的は信長討伐ではなかった? 武田信玄〝西上作戦〟の真相(前編) | JBpress (ジェイビープレス)
(城郭・戦国史研究家:西股 総生) 武田信玄「未完」の戦い 1573年(元亀4)3月、武田信玄は三河の野田... (城郭・戦国史研究家:西股 総生) 武田信玄「未完」の戦い 1573年(元亀4)3月、武田信玄は三河の野田城を包囲する陣中で体調を崩した。武田軍は信濃の伊那地方へ撤退したものの、信玄の病状は悪化し、4月12日には駒場の地で帰らぬ人となる。 この信玄未完の戦いは、一般には「西上作戦」とか「上洛戦」とされている。当時、織田信長との関係が悪化していた将軍・足利義昭は、各地の大名に信長討伐指令を発していた。この指令を受けた信玄も、上洛を目指して作戦を開始した・・・といったいきさつは、今回の大河ドラマ『麒麟がくる』でも描かれていたところ。 でも、残念ながら、真相はちょっと違う。いや、信玄が三河に兵を出したのも事実だし、義昭も信玄を頼りにしていた。違うのは、そこではなく、作戦の目的という部分である。 どういうことなのだろうか? 話は20年ほど前にさかのぼる・・・ 。 1554年(天文23)、信玄は相模