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山陽町史⑧松嶽山正法寺と元寇(げんこう) - 厚狭吉亭日乗・神戸残日録
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山陽町史⑧松嶽山正法寺と元寇(げんこう) - 厚狭吉亭日乗・神戸残日録
8月8日のこのブログ山陽町史⑥に書いたように、厚狭の象徴のひとつ松嶽山・正法寺(中世の頃は松嶽寺と... 8月8日のこのブログ山陽町史⑥に書いたように、厚狭の象徴のひとつ松嶽山・正法寺(中世の頃は松嶽寺とも呼ばれた)は源平壇ノ浦合戦の際、軍兵に襲われ全山焼失して寺伝、寺領等が皆無となった。 戦火より38年後、貞応2年(1223)正法寺の僧・大賢は再建の為新たに寺伝と財産目録(新券流記帳・しんけんるきちょう)を作成して国司へ嘆願、遂にこれが入れられて伽藍は復興、国分寺に次ぐ格式の高い寺院とされ、蒙古軍来襲の国難に際して異国降伏祈祷を命ぜられ全山挙げて実行した。 蒙古(もうこ・モンゴル)軍の来襲は「元寇」と呼ばれ海に囲まれ外敵侵入の歴史が少ないわが国にとっては大事件であった。 モンゴルは当時既にアジア、ヨーロッパを制し各地を分割統治していたが、中国を中心に治める皇帝・フビライは北京に都を定め国号を元とした。その後南宋を下し朝鮮半島・高麗(こうらい)を服属させ、ついに日本に威圧を加えて来た。 時の鎌