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葬儀という儀式の必要性と、香典半返しの苦痛な作業/鴻上尚史 | 日刊SPA!
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葬儀という儀式の必要性と、香典半返しの苦痛な作業/鴻上尚史 | 日刊SPA!
父が去年の12月17日に死んだ話の三回目です。 通夜では、「意味の分かるお経」でしたが、葬式では、「意... 父が去年の12月17日に死んだ話の三回目です。 通夜では、「意味の分かるお経」でしたが、葬式では、「意味のまったく分からないお経」でした。 こんなことを言ってもしょうがないのですが、「意味が分かりたいなあ」と思いました。 その昔、インドや中国から伝わった「ありがたいお経」は、意味が分からないからこそ、価値があったのだと思います。サンスクリット語や中国語などで書かれたお経だからこそ、権威が生まれ、日本人は感動したのでしょう。 けれど、今は状況が違うと思うのです。それが、キリスト教の牧師さんや神父さんが、聖書の「分かる言葉で死者を送る」という厳粛な瞬間に立ち会った後に感じたことです。 お経の時間は意味が分からなくて、参列者にとって「我慢の時間」になっていることが、仏教にとっても日本人にとっても残念なことなんじゃないかと思えてしょうがないのです。 葬式が終り、火葬場へと移動しました。 二時間弱待