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「主人公=著者」からの脱却が生む非アイドル感 高山一実『トラペジウム』を読んで
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「主人公=著者」からの脱却が生む非アイドル感 高山一実『トラペジウム』を読んで
昔から折に触れて考えてしまうことがある。 それは、「美人は本当に幸せなのか?」ということだ。 これ... 昔から折に触れて考えてしまうことがある。 それは、「美人は本当に幸せなのか?」ということだ。 これは、僕が男だから提示出来る問いだろう。 女性だったら、どんな立場・状況の人が発しても、問いの本質に関わらない余計な贅肉がついてまわってしまう。そんな類の問いだ。 僕がそんな疑問を抱く時、思い出す本がある。桜庭一樹の小説『少女七竈と七人の可愛そうな大人』(角川書店)だ。その中に、こんな文章がある。 異性からちやほやされたくもなければ、恋に興味もなく、男社会をうまく渡り歩きたくもなければ、他人から注目されたくもないのに、しかし美しいという場合、その美しさは余る。過剰にして余分であるだけの、ただの贅肉である。 しかも、その悩みは誰にも打ち明けることが出来ない。過剰に持つものの羨ましい悩みであるとしか捉えられず、かえって非難を浴びることであろう。本人としては、真面目に思っているのだ。美しさに寄り添った