エントリーの編集
エントリーの編集は全ユーザーに共通の機能です。
必ずガイドラインを一読の上ご利用ください。
ミシェル・ド・セルトーの「戦術」としての「まちつかい」という概念|タニリョウジ
記事へのコメント0件
- 注目コメント
- 新着コメント
このエントリーにコメントしてみましょう。
注目コメント算出アルゴリズムの一部にLINEヤフー株式会社の「建設的コメント順位付けモデルAPI」を使用しています
- バナー広告なし
- ミュート機能あり
- ダークモード搭載
関連記事
ミシェル・ド・セルトーの「戦術」としての「まちつかい」という概念|タニリョウジ
本を読んでいて「これはまさに私が考えていたことだ!」みたいな膝を打つ感覚は、どういうわけかとても... 本を読んでいて「これはまさに私が考えていたことだ!」みたいな膝を打つ感覚は、どういうわけかとても気持ちよくて、まるで作家が自分を代弁してくれたような一体感というか、ここで悩んでいたのは私だけじゃないんだな感みたいなものを感じるものですよね。そういう読書体験が得られることはとても幸福なように思えます。 さて、最近読んだ本で、僕がその感覚を強く得られたのが、コチラの本でして。 本書はタイトルどおり、カルチュラル・スタディーズの入門として、関連する書籍の一通りの解説をしているものなのですが、その中のミシェル・ド・セルトーの『日常的実践のポイエティーク』が胸熱で。セルトーの言わんとするところを最も象徴するのがこの一文。 「歩く行為の都市システムにたいする関係は、発話行為が言語や言い終えられた発話にたいする関係にひとしい」 アツいっすね。どうアツいかっていうと、こうです。 例えば僕の専門とするまちづ