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"ありのままの私"幻想|小野ほりでい
△欲望の果実は地平まで続いている。1つを得ればまた1つの繰り返しだ。 資本主義は驚くべき速度で数千... △欲望の果実は地平まで続いている。1つを得ればまた1つの繰り返しだ。 資本主義は驚くべき速度で数千年にわたって培われた宗教・哲学・思想といった教義的な観念を解体した。資本主義はあらゆる欲望を抑圧するもの―――たとえば暴飲暴食に耽るなかれ、汝姦淫するなかれ、といった禁欲的な啓蒙―――を敵とし、そして自由や希望を志す者たちの味方として共に戦い、やがては人々にあらゆる欲望に対する自由をもたらすことになった。資本主義が人に欲望を許すのは、人が欲望に対して金銭を惜しみなく差し出すという前提が必要だからだ。自由や希望を志す者たちにとって、啓蒙こそが最後の枷であり、希望に関する最後の戦いとは啓蒙そのものからの逃亡に他ならなかった。 しかし、自由がひとつ人間に対して詐欺を働いたとすれば―――啓蒙や抑圧の枷を外したとき、人は自分の中に内在するそれぞれの「望み」に基づいて振る舞うことができる「予定」だったのに