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坂本邦夫著 『紀元2600年の満州リーグ 帝国日本とプロ野球』 その1の続き。 1929年、日本初のプロ野... 坂本邦夫著 『紀元2600年の満州リーグ 帝国日本とプロ野球』 その1の続き。 1929年、日本初のプロ野球の試みであった「日本運動協会」は挫折に終わった。といっても野球人気が下火になったのではなかった。それどころか「協会の解散当時は六大学野球の絶頂期だった」。 各地に様々な目的を持って企業チームが作られていた。また六大学人気は映画を食ってしまうほどで、「不入りに喘ぐ映画館では、観客へのサービスで早慶戦の試合経過を伝えていたという」。ならばということなのか、牧野省三が創設したマキノ・プロダクションは孫孝俊に、「俳優をしながらマキノの野球チームでプレーしないか」と声をかけた。 孫孝俊は李吉用に宛てて「突然マキノ・プロに入社してすでに二つの映画を撮影中です」と手紙を書いた。この「李吉用は、一九三六年、ベルリン五輪のマラソン競技で優勝した孫基禎の表彰式の写真から胸の日の丸を消した東亜日報の「日
2021/07/22 リンク