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徳川期、関ヶ原合戦は現代と異なって伝わっていた?~伊沢蘭軒の旅行記から~ | とらっしゅのーと
天下分け目の合戦・関ヶ原。非常に有名な合戦なので、ここへ来られるような方は大概御存じかと思います... 天下分け目の合戦・関ヶ原。非常に有名な合戦なので、ここへ来られるような方は大概御存じかと思います。しかし一応は概略を申しておきましょう。豊臣秀吉死後に我が国で最有力者となったのは徳川家康。一方、それに反発する勢力も根強く存在しました。彼らは石田三成を中心として家康に対し挙兵し、家康方と関ヶ原で合戦に及びました。これに家康が勝利し、徳川家の覇権が樹立されたのです。 さて、通説では以下のように言われています。三成方(西軍)は家康方(東軍)を包囲する形で布陣し、開戦時には有利な形にありました。しかし、南の毛利軍は形勢を観望して動かず。また合戦の佳境において、西軍にとって扇の要に位置する箇所で布陣していた小早川秀秋が寝返りました。これを契機に東軍優勢となり、西軍は敗北。これが広く知られた合戦推移です。 しかしながら近年、これに疑義が向けられているということです。何でも、現在知られている合戦図は明治
2017/06/28 リンク