![](https://cdn-ak-scissors.b.st-hatena.com/image/square/36f48f5a0879200633108346918f69d60ca5def1/height=288;version=1;width=512/https%3A%2F%2Fimgopt.asahi.com%2Fogp%2FAS20230515001245_comm.jpg)
エントリーの編集
![loading...](https://b.st-hatena.com/bdefb8944296a0957e54cebcfefc25c4dcff9f5f/images/v4/public/common/loading@2x.gif)
エントリーの編集は全ユーザーに共通の機能です。
必ずガイドラインを一読の上ご利用ください。
記事へのコメント1件
- 注目コメント
- 新着コメント
注目コメント算出アルゴリズムの一部にLINEヤフー株式会社の「建設的コメント順位付けモデルAPI」を使用しています
![アプリのスクリーンショット](https://b.st-hatena.com/bdefb8944296a0957e54cebcfefc25c4dcff9f5f/images/v4/public/entry/app-screenshot.png)
- バナー広告なし
- ミュート機能あり
- ダークモード搭載
関連記事
保革問わず流れる沖縄の通奏低音 本土に伝わりにくい意思表示の感覚:朝日新聞デジタル
沖縄が日本に復帰して、15日で51年が経った。過酷な沖縄戦の経験と戦後の米軍基地の過重負担から、沖縄... 沖縄が日本に復帰して、15日で51年が経った。過酷な沖縄戦の経験と戦後の米軍基地の過重負担から、沖縄の人々の心中には、政治的な立場を超えた通奏低音のような思いが流れているという。それは一体何なのか。この島の戦後史を研究する沖縄国際大学准教授の秋山道宏さんに聞いた。 ◇ 沖縄での戦争体験の語りを調べると、戦後間もない1950年代ごろまでは軍隊の視点が前面に出ていたことが分かります。日本軍関係者による戦闘記録や軍記が多く書かれ、日本本土とのつながりを意識した慰霊のあり方が広がった。当時の沖縄は貧しく、戦傷病者戦没者遺族等援護法の適用による経済的補償を求めて琉球遺家族会が結成され、「日本軍への協力」が強調された面もありました。 今では日本軍が民間人を壕(ごう)から追い出したと証言されていますが、当時はそれを「壕や食料を供出した」と表現せざるを得ない事情があったのです。また、米軍統治を脱するために
2023/05/16 リンク