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「肥後迷惑」の死者は天草下島の西岸にも、上田家文書から判明:朝日新聞デジタル
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「肥後迷惑」の死者は天草下島の西岸にも、上田家文書から判明:朝日新聞デジタル
雲仙の噴火と、その後の津波で現在の熊本・長崎両県で1万5千人の死者・行方不明者を出したと言われる江... 雲仙の噴火と、その後の津波で現在の熊本・長崎両県で1万5千人の死者・行方不明者を出したと言われる江戸後期の災害。これにまつわる記録が、熊本県の天草下島で庄屋を務めた上田家の文書から見つかった。死者は下島の西海岸まで流れ着き、村で手厚く葬られた。その後、二十五年忌の法要も営まれたという。 この災害は史上、「島原大変肥後迷惑」として知られている。1792(寛政4)年、火山活動により眉山が崩れて島原湾に流れ込んだ。これにより大津波が発生し対岸の肥後を襲った。 上田家は高濱村(現在の天草市天草町の一部)にあり、古文書が子孫から天草市に預けられた。市の調査で、「肥後迷惑」にかかわる記録が出納簿である「勘定帳」から見つかった。 村は下島の天草灘に面する西海岸にあり、直接の被害はなかった。しかし、7体の遺体が漂着し、寺で供養した。翌年の一回忌は費用を村で負担していた。 七回忌にあたる1798年に「海會(