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ふるさと人物誌3 堀川の恩人 「古賀 百工」(こが ひゃっこう) | 朝倉市
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ふるさと人物誌3 堀川の恩人 「古賀 百工」(こが ひゃっこう) | 朝倉市
「猿どん」と呼ばれ、堀川の恩人と慕われた庄屋がいました。その人、下大庭村庄屋古賀百工の知恵と努力... 「猿どん」と呼ばれ、堀川の恩人と慕われた庄屋がいました。その人、下大庭村庄屋古賀百工の知恵と努力の生き方とは。 ●筑後川の水が欲しい まず、百工が生まれる前の筑後川と堀川の話をしましょう。今でこそ穀倉地帯と言われる朝倉も江戸時代の初めの頃は、小さな川の周辺に広がる水田や、溜め池から水を引く田が散在する程度で、松原や荒地が目立っていました。また、日照りが続くとわずかな稲も立ち枯れてしまい、作物も取れず、さらにはいなごなどの害虫にも襲われ、何度も飢饉(作物がとれず、飢えに苦しむこと)におちいりました。 人々は筑後川の豊富な水量を見て「なんとかして、これだけの水を荒地に引き込めないだろうか」と嘆きました。 堀川(人工の水路)が始めてできたのは、寛文3年(1663年)のことです。この年も長い間雨が降らず、草まで枯れはてる大旱魃(日照りで作物が枯れること)に見舞われました。 福岡藩はこの災害をきっか