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仏法伝来をめぐる蘇我氏と物部氏の抗争 | 歴史人
山背大兄王の宮を襲撃する蘇我入鹿の軍勢 『太子伝記』に描かれた、山背大兄王の宮を襲う蘇我入鹿軍の様... 山背大兄王の宮を襲撃する蘇我入鹿の軍勢 『太子伝記』に描かれた、山背大兄王の宮を襲う蘇我入鹿軍の様子。山背大兄王は一度館から脱出した後、館へ戻り自害。国立国会図書館所蔵 皇極(こうぎょく)2年(643)11月、蘇我入鹿(そがのいるか)は厩戸皇子(うまやとのみこ)の後継者・山背大兄王(やましろのおおえのみこ)を斑鳩宮(いかるがのみや)で襲い、一族ともども滅ぼすに至った。『日本書紀』によれば、それは大王(おおきみ)家の簒奪(さんだつ)を企てていた入鹿がその第一歩として山背大兄の殺害に及んだものとされている。 しかし、当時大王家と蘇我氏が直接対立関係にあったとは考えられない。むしろ大王家内部の確執、すなわち王位・王権を巡る敏達(びだつ)天皇の系統(敏達統)と用明(ようめい)天皇の系統(用明統)の対立・抗争こそが権力闘争の焦点であった。すなわち入鹿は、敏達統のリーダー的存在であった皇極(こうぎょく