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【本郷和人の日本史ナナメ読み】(8)なぜ『信長公記』は年号を誤ったか+(1/4ページ) - MSN産経ニュース
さんざん引っ張ってすいません。ぼくが思い描く桶狭間の戦いとは、次のようなものです。永禄3(156... さんざん引っ張ってすいません。ぼくが思い描く桶狭間の戦いとは、次のようなものです。永禄3(1560)年、前年にほぼ尾張を統一した織田信長の勢力の増大を警戒した今川義元は、領国の総力を挙げ、2万を超える大軍を率いて尾張国境に兵を進めた。国境地域を侵略して信長の勢いに打撃を与え、ゆくゆくは尾張を占領するためである。 信長も全力で今川勢を迎え撃つ。尾張一国を完全に掌握していれば2万の兵を動員することも可能だが、まだその支配は成熟していないために、そこまでの軍備を整えることはできない。けれども、おそらく1万を超える兵は用意していただろう。 今川軍はそれぞれの城や砦(とりで)を攻める兵を割き、桶狭間に陣を敷いていた。織田軍は丸根・鷲津砦を捨て駒とし、残る全軍で今川本軍を攻撃する。この時点で、桶狭間における両軍の兵力差は相当に縮まっていて、今川軍が織田軍の10倍などということはあり得なかった。戦術の巧
2011/05/02 リンク