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畝傍事件
明治の艦政家を悩ましたのは、日本の地勢的位置であった。日本の最初の甲鉄(軍艦らしく多少の装甲を有... 明治の艦政家を悩ましたのは、日本の地勢的位置であった。日本の最初の甲鉄(軍艦らしく多少の装甲を有する)艦は扶桑である。この艦の設計制作はイギリスのエドワード・リードに任された。1878年完成の扶桑は3700トン13ノット24センチ砲4門、17センチ砲2門であった。そして、呼び名は鋼鉄フリゲートであった。 当時の石炭推進の軍艦の航続距離はせいぜい1500海里程度しかなかった。これだと日本一周がようやく可能な程度である。仮想敵は清国・ロシアであるが、清国についていえば、その二つの海軍基地、旅順・威海衛から上陸作戦部隊を日本まで運ぶこと、または日本近海の制海権を戦艦によって奪うことは不可能である。 清国の2隻の戦艦鎮遠・定遠はイタリア型砲艦であって、航洋性、すなわち外洋で戦闘する能力を欠けていた。あくまでも「鏡のような」黄海で戦う戦艦なのである。もし、日本近海に来ても、滞在できる時間は短く、波が