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第86回 生の終わりについて 私の知らない二、三の事柄 - 株式会社現代思潮新社
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第86回 生の終わりについて 私の知らない二、三の事柄 - 株式会社現代思潮新社
第86回 2017年5月 生の終わりについて 私の知らない二、三の事柄 鈴木創士 石井恭二『心のアラベスク』... 第86回 2017年5月 生の終わりについて 私の知らない二、三の事柄 鈴木創士 石井恭二『心のアラベスク』『正法眼蔵覚え書』 ノヴァーリス『日記・花粉』 バタイユ『無頭人』 肉体は肉体ではない。 肉体は肉体をつくりだし、病み、やがてそれを衰亡させる。肉体の滅却は肉体が望んだことであって、肉体のプログラムはそれ自体ただのプログラムではないし、恐らくプログラムとは死がつくりだしたものだと私は考えていたが、それは一刻一刻と、刹那に変貌を繰り返してきた。だが肉体は変幻するとはいえ、肉体それ自体は自在ではない。『心のアラベスク』という本のなかの石井恭二の言葉を借りれば、肉体はぐずぐずしていても、死の時に臨んでも、つねに直下の今を生きるほかはない。肉体は今を生きているからこそ、死に際に「早く、早く」と言う。「われわれは、愚図々々していても常に直下の今を生きている。先の念仏僧安楽は河原に斬られた。あの