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ブックマーク / hituzinosanpo.hatenablog.com (30)

  • 反原発を 分断する優生思想。 - hituziのブログじゃがー

    反原発運動の なかでの「優生思想」の問題が、以前から指摘されてきました。たとえば、2011年2月には つぎのような記事が問題になりました。 上関原発、強行工事!! - ゆいわのきほくのわ この記事には、たとえば つぎのような文章があります。 日の原発は、たくさん放射能が漏れています。ごまかして隠してますが、原発地帯の子供達は奇形児や白血病が多いのです。 みなさんの子どもが、原発地域で育った女の子と結婚したいと言ったらどうしますか? 年頃の女の子は、奇形児を産む可能性が高いから結婚できないのです。 このひとは、結婚差別を 批判することなく、むしろ利用し、そして「奇形」を さけるべきものと規定しています。上関(かみのせき)に原発をつくるなと主張するために、このような論理は必要なのでしょうか。むしろ、反原発運動に差別を とりこむことによって、運動を 分断することになるのでは ないでしょうか。

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  • シンポジウム「障害者と原発問題―福島原発事故以後をどう生きるか」3月3日。 - hituziのブログじゃがー

    シンポジウムの案内です。 第26回 国際障害者年 連続シンポジウム「障害者と原発問題―福島原発事故以後をどう生きるか」 PDFのチラシ 基調講演「震災、原発、そして障害を持つ人達」 鈴木絹江さん(福島県田村市在住・NPO法人「ケアステーションゆうとぴあ」理事長) シンポジスト 堤愛子さん(NPO法人町田ヒューマンネットワーク副理事長) 槌田劭さん(使い捨て時代を考える会) 橋尚樹さん(JCIL介助者) 企画趣旨 この「国際障害者年」連続シンポジウムは、「完全参加と平等」をかかげた国際障害者年の理念をふまえ、国連決議の「企画の段階から決定まで、あらゆることについて心身障害者の参加が重要である」という視点に立ち、様々な社会問題について障害者の立場から問題提起するものです。今回のテーマは「障害者と原発問題」です。 2011年の東日大震災は、地震と津波により多大な被害をもたらしました。さらに福

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  • 9月8日から13日まで 東京。 - hituziのブログじゃがー

    予定:11日は、むすびめの会(図書館と在住外国人をむすぶ会)で講演。13日は、上野で あそぶ。それ以外は未定。 いきたいところ: 多文化共生センター東京(開設日:火〜土 の午前11時〜午後7時まで) 在日韓人歴史資料館(休館日:日曜日、月曜日、5月3〜5日、年末年始) 高麗博物館(休館日:日曜日、月曜日) お肉の情報館 (休館日:土曜日・日曜日・祝日・年末年始) 海外移住資料館(休館日:月曜日(祝祭日と重なる場合は翌日)、年末年始) 矯正図書館(休館日:土曜日、日曜日、国民の祝日及び年末年始、特別整理日(不定期)) 土曜日に 多文化共生センター東京と在日韓人歴史資料館、日曜日に 海外移住資料館、月曜日に お肉の情報館に いけるかな。

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  • 災害時の外国人被災者のための「やさしい日本語」 - hituziのブログじゃがー

    あべ やすし 2010 「識字のユニバーサルデザイン」かどや ひでのり/あべ やすし編『識字の社会言語学』生活書院、384-342 うえの論文で「災害時の外国人被災者のための「やさしい日語」」を 紹介しましたので、その部分を はりつけます。後半では、ろう者を対象とした「筆談のポイント」も紹介しています。参考になればと おもいます。 文章のなかにも ありますが、そのひとが よく わかる言語で情報提供するのが いちばん いいです。それが できないときに、わかりやすい日語で つたえようということです。 6-3 「やさしい日語」 日常の生活に密着する情報は公共性がたかい。そうした情報は、みんなにとどけられる必要がある。なかでも災害時における情報は緊急性もたかく、きちんと検討しておく必要がある。 おおきな災害がおきたとき、「どこで、なにがおきているのか」「どこに避難すればいいか」「いつ救助や支

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  • 日本の入国管理体制を 批判する。 - hituziのブログじゃがー

    の入国管理体制のなかで、収容されたり、強制送還されたり、労働や健康に関する権利を うばわれている ひとたちが いる。密入国した ひと、偽造パスポートで入国した ひと、資格外 労働をしてきた ひと、オーバーステイをした ひとたちだ。そのなかには出身国で迫害されていたため 国外に のがれてきた ひとたちが いる。難民と よばれる。 ほとんどの ひとが出身国では生活が たいへんだった。それは共通している。それなら、「入管に抑圧されている ひとたち」の うち、難民だけに焦点をあてることは あまり適切ではないと おもう。難民には難民の背景があり、移住労働者には移住労働者の背景がある。その ちがいは きちんと ふまえる必要がある。それぞれに支援団体が必要で、現に役割分担している。 けれども、日の入管体制に興味を もちはじめたときに、難民の人権だけに注目しようとする場合が あるように感じる。その点

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  • 狩猟民族じゃねえ、狩猟採集民じゃい。 - hituziのブログじゃがー

    田重道(ほんだ・しげみち)『なぜ、私の歳をきくの? 年齢不問社会の提言』飛鳥新社 うえのを よんでいたら、くだらないことが かいてあったので批判します。 田は、「年齢」という かんがえかたの起源について想像を めぐらせ、つぎのように かいている。 原始の狩猟時代とは言え、ヒトは集団生活をしていたし、その最小単位の「家族」はすでにあったはずだ。例えば、であり母である彼女は、洞窟の中で狩りから戻る夫を待ち続けていたであろう。 (23ページ) このあと「獲物を手にした夫を待ちわびる、洞窟の女」という表現も でてきます。どんだけ受身なんだよっていう。 「狩猟採集民」っていう用語があります。文化人類学のの題名にもありますね。 今村薫(いまむら・かおる)『砂漠に生きる女たち―カラハリ狩猟採集民の日常と儀礼』どうぶつ社 亀井伸孝(かめい・のぶたか)『森の小さな〈ハンター〉たち―狩猟採集民の子ど

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    florentine
    florentine 2010/11/25
    わたし女性だけど待つの嫌いです。
  • 「当事者」を 尊重しつつ、依存しない。 - hituziのブログじゃがー

    当事者の意見を 尊重する。当事者の声を きく。だいじなことですよね。その当事者が 社会的に排除されてきた 現実があるなら、きちんと はなしを きくことから はじめないといけない。 いろいろな社会問題が あるなかで、これは ゆるせないと感じ、その問題の解決に とりくむことがあります。そのとき、「わたし」の主体で、「わたしは こんなことは ゆるせない」という問題意識から出発する必要があると おもいます。 逆に、差別に反対したり、日社会の問題に とりくんだり、なぜ そういう社会運動を「わたし」はするのか。それを、いわゆる「当事者」が「いやがっているから」というリクツでやっていると、当事者とされる ひとが「いやがってくれないと こまる」ってことになってしまう。 そうなると、自分の主体よりも「当事者」の主体に依存してしまうことになる。「わたしが いやなんだ」というリクツで うごかないかぎり、「運動

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    florentine
    florentine 2010/11/10
    「ぐるぐるー。まぜまぜー」☆
  • 『認知症と診断されたあなたへ』医学書院 - hituziのブログじゃがー

    小澤勲(おざわ・いさお)/黒川由紀子(くろかわ・ゆきこ)編『認知症と診断されたあなたへ』医学書院 すこしまえに よんだですが、いいです。とはいっても まだ半分しか よんでいませんが。 このを つくった背景を、おざわさんは つぎのように解説しています。 このは、共編者の黒川さんが教えておられる学生さんが、ゼミで「認知症に関するには、啓蒙書もあり、専門家向け、ケアスタッフ向け、家族向けのものもあるのに、なぜご人に向けたがないのですか」と問われたことから計画されました。 おざわさんは、「たしかに、誰よりも不安で、悩み苦しんでおられるに違いない方に向けたが、これまではなかった」、「認知症と診断された方に、まず読んでいただくようなも必要なのでは、と考えました」としています(7ページ)。このは「認知症をかかえるあなたの、日常生活に役立つガイドブックを目指している」ということです(8

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  • 責任の分散とリーダーシップ。 - hituziのブログじゃがー

    だらだらと。結論もなく。なんとなく。 3人くらいで しらない まちを あるいていて、みちに まよってしまうことがある。安心してしまうからだ。たぶん、だれか、みちを ちゃんと えらんで あるいているんだろうと。 責任の分散って、社会心理学の実験で指摘されていたよね。 傍観者効果 1964年のある日の夜、ニューヨークの住宅街でキティ・ジェノバースという女性が帰宅途中に男に襲われました。女性が襲われたときに悲鳴をあげたため、男はその場を立ち去りましたが、誰も出てくる気配がなかったのでもう一度戻り、女性に暴行を加えました。そのようなことを数回、30分にも渡り続け、とうとう女性は殺害されてしまいました。この事件が特異なのは、犯人ではなく周囲に住んでいた人々のほうでした。事件後の調べによると、なんと38名もの人が女性の悲鳴を聞いていたというのです。しかし、窓際から外を見ても、特になにもなかったため警察

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  • 「人件費削減 研修生」で検索してみた(読書案内/制度改正について)。 - hituziのブログじゃがー

    安田浩一(やすだ・こういち)『ルポ 差別と貧困の外国人労働者』光文社新書。 このは とても充実した新書で、しっかり取材して文章にしています。前半の第一部は中国人研修生について、後半の第二部は日系ブラジル人についてです。 ケン・ローチ監督 映画『この自由な世界で』。 この映画を ぜひ みてください。そして、『ルポ 差別と貧困の外国人労働者』を よんでみてください。 さて、『ルポ 差別と貧困の外国人労働者』54ページには つぎのようにある。 送り出し機関も受け入れ機関も、研修制度の来の意味など初めからなかったかのような顔をして、露骨な宣伝を展開している。ネット上や宣伝パンフレットでは、次のようなコピーがあふれている。 「コストダウンの切り札として研修生を!」「あなたの会社の人件費削減に協力します」「低コストで優秀な人材を提供」「人手不足を解消」「若い労働力を活用しませんか」――。 人件費削

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  • 『月刊イオ』2010年 5月号。特集「差別なき高校無償化を」。 - hituziのブログじゃがー

    『月刊イオ』2010年 5月号(特集「差別なき高校無償化を」)に、「民族教育を平等に」というエッセーを かきました。40-41ページ。 5月号も、いつもどおり充実した1冊にしあがっているので、ぜひ よんでみてください。 わたしの「民族教育を平等に」という文章は、『月刊イオ』が今年の1月号から連載をはじめた「ブロガーズ@イオ」というシリーズで、ともだちの ツネノさん(id:toled)さんや さるとらさん(id:sarutora)さんも かいています。片山貴夫(かたやま・たかお)さんや なごなぐ雑記さん(id:nagonagu)も。 わたしの「民族教育を平等に」は、このブログで かいてきた「多数派には名前がない」シリーズの問題意識を土台にしています。「学校のなかの問題」だけでなく、「学校のそとの問題」を 改善する必要があると論じました。 関連リンク: 月刊「イオ」★目次 月刊「イオ」★今月の

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  • 『あれは自分ではなかったか―グループホーム虐待致死事件を考える』 - hituziのブログじゃがー

    きのう、ねるまえに『閉鎖病棟』という小説を よもうと おもったのですが、ひょっこり よみかけで放置していた下村恵美子(しもむら・えみこ)/高口光子(たかぐち・みつこ)/三好春樹(みよし・はるき)『あれは自分ではなかったか―グループホーム虐待致死事件を考える』ブリコラージュが でてきました。 今年の読書を ふりかえると、いくつか すばらしい であいが ありました。なかでも、『ケアという思想―ケア その思想と実践 1』収録の 三好春樹「ブリコラージュとしてのケア」に すばらしく感動しました。 三好さんのは、『ウンコ・ シッコの介護学』は もっていましたので、すこし意識していたのですが、「ブリコラージュとしてのケア」は、ほんとうに よく まとまっていて 衝撃的だったのでした。 それ以来、三好さんのを あれこれ よんでいますし、三好さんが発行している『月刊ブリコラージュ』も購読しています。それ

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    florentine
    florentine 2010/03/26
    「それでも そんな いきどまりから「わたし」を すくいだしてくれるのは、「気になる ひと」の笑顔であるのです。」
  • 国籍差別/民族差別を なくすための読書案内。 - hituziのブログじゃがー

    わたしが問題にしたいのは、「「日人(ヤマト人/和人)」であること」ではない。問題は、属性にあるのではない。どのように行動するのかが とわれるべきだ。 日社会において「民族的な多数派」に「属しているだけ」で批判されるべきではない。だが、この社会に民族差別を のこしているなら、その制度を なおさないといけない。差別制度によって、自分が結果的に得をしているなら、なにを しているわけでもなくても、差別制度に よいしょされた生活をしている。差別を 再生産していると いっても いい。その状況で、「わたしは なにを するのか」ということ。どのように ふるまうのか、ということ。 たとえば天皇制は、戸籍制度とセットになって日社会で生活している ひとたちを しばっている。『非婚の親と婚外子』というで問題にされているのは、婚外子への制度上の差別だ。 戸籍制度は、性別二元論と異性愛主義によって性的少数派を

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  • 無力感が 無責任に つながってしまう。 - hituziのブログじゃがー

    その社会の だれもが、自分は無力だ、社会を かえる ちからはないと感じてしまうなら民主主義の社会ではない。ダグラス・ラミスが いうとおり、「無力感を感じるなら、民主主義ではない」のだ(『経済成長がなければ私たちは豊かになれないのだろうか』第5章)。 無力だと おもっているなら、自分の責任など実感できるはずもない。自分に決定権や影響力が あることを 実感するからこそ、自分の やくわりや責任を 自覚するようになる。 「わたしは この社会を かたちづくっている一員なのだ」という感覚。そういう感覚が まず第一に必要。それが おのずと実感できるような社会にしないといけない。そうしていくなかで、自分の社会的位置を 確認し、構造的差別への「責任」を 実感できるようになる。行動できるようになる。 責任を ひきうける。 - hituziのブログじゃがー 要するに、「差別者として自覚する」とか、そういうことは

    無力感が 無責任に つながってしまう。 - hituziのブログじゃがー
    florentine
    florentine 2010/03/04
    「無力だと おもっているなら、自分の責任など実感できるはずもない。自分に決定権や影響力が あることを 実感するからこそ、自分の やくわりや責任を 自覚するようになる」「権力って、いったい なんだろう?」
  • 責任を ひきうける。 - hituziのブログじゃがー

    いくつかのはなし。「悪意ある責任論」の問題、いわゆる「たち位置(ポジショナリティ)」について、「おまえだって」という批判について。 差別について。 - hituziのブログじゃがー たとえば、わたしは知的障害者の施設で しごとをしてます(「あたえることには 意識的。うばいとることには 無自覚。」)。わたしの職場はグループホームも いくつも運営しているのですが、わたしの部署は入所施設です。社会の都合で、制限された空間を いきているひとがいます。そこで しごとを している わたしは、毎日の業務で なにを どうしようとも、正義などではありえないのです。これは社会全体の問題ですから、社会をつくりなおさないかぎりは、胸をはれる日など、おとずれはしないのです。それまで わたしは、差別者でありつづけるのです。 でもだからといって、わたしが自己批判をつづけて絶望して、無気力になって、死んでしまえば正義にな

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    florentine
    florentine 2010/03/04
    「これまでの あゆみによって この社会が つくられたなら、これからの あゆみによって、かえてゆけばいいのです。だからこそ、「たいせつなのは、「わたしは どの方向を むくのか」ということ」なのです。」
  • 多数派には名前がない(ヤマト人=和人として、その責任を ひきうける)。 - hituziのブログじゃがー

    ヤマト人は にげる。「民族は つくられた概念で、実体は ない」と相対化する。おきなわ人に「ヤマト人」と よばれても、アイヌ人に「和人」と よばれても、そんな実感はないし、民族意識など もっていないと いえてしまう。 国家において、「民族」を 意識させられるのは、いつもマイノリティである。差別制度が、日常的な差別が、マイノリティに「民族」を 意識させるのだ。 それを 指摘し、多数派日人に「ヤマト人」や「和人」という名前を つけてみても、「名前のない多数派」は にげてしまう。「民族意識など、幻想にすぎず、そして わたしは「ナショナリズムに反対する」」のだと。そんな態度が良心的だと、なぜ おもえてしまうのか。 多数派は、名前を つける側である。そして、多数派は名前を もたない。多数派は、名前を つけられるのを いやがる。自分たちは、だれかにたいして、くりかえし やっていることなのにだ。 民族は

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    florentine
    florentine 2010/02/13
    「だれでもない立場に にげこむことなく、歴史と責任を せおった集団の一部として、関係を むすびなおす努力をしよう」
  • 多数派には名前がない(多数派の「オフサイド トラップ」)。 - hituziのブログじゃがー

    少数派には名前がある(ベジタリアンをめぐって)。の続編と いいますか。逆の視点から おなじことを かきます。 多数派って、なあに。えーっと、社会のなかで 多数をしめる ひとたち? この社会に いっぱい いるひとたちのこと? 「ちょっと ずれたひとたち」以外ってこと? 自分が「ふつう」だと おもってしまえる ひとたちのこと? わたしが おもうに、多数派と少数派は、名前の あるなしで区別できる。少数派には名前がある。多数派には名前がない。これを ずばりと指摘したのが、アイデンティティの政治性を くわしく論じている 石川准(いしかわ・じゅん)さんだ。 障害者は、障害者というアイデンティティとか立場を引き受けるにせよ拒絶するにせよ、つねに「障害者」として振る舞わなければなりません。障害者というアイデンティティや立場から自由になろうとしても、それもまた障害者としての一つの「政治的な意味を帯びた」選択

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  • 映画『ブタがいた教室』。 - hituziのブログじゃがー

    みるまえ。みたあと。 みるまえ。 こどもだろうとなんだろうと、ブタいっぴき ころせない肉者なんて くそだ。洗練されくさった都会っ子たちの感覚なんか くそくらえってもんだ。 よし。ころせないなら、ベジタリアンになろう! ベジタリアンは たのしいぞ。ベジタリアンは なにも「禁欲の がちがちの ひと」なんかじゃないぞ。もちろん、禁欲なベジタリアンも いても いいけど。肉に制限する生活は じっさい たのしいし、苦痛じゃないし、なんともないことなんだ。肉を たべるのを「がまんしよう」ってことじゃないんだ。肉を たべない たのしい生活を、ちょっとでも あじわってみようぜってことなんだ。一日だろうと、週末だけだろうと。毎日だろうと。自分なりのベジタリアン生活を。 どっちみち、肉を たべるってことは 動物を ころすということ。そして、動物を ころすということは そんなに苦痛なことじゃない。わくわくする

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  • 障害認識を 革命すれば「障害者」の表記など 問題ではない。 - hituziのブログじゃがー

    「障害認識の パラダイムを 転換すれば「障害者」の表記など 問題ではない」と表現しても いいです。 差別のマッチポンプ - E.L.H. Electric Lover Hinagiku うえの記事に 宿題を いただいていたのですが、ずっと反応できずに いました。うえの記事でid:y_arimさんは「障害者」や「障がい者」という表記の問題点を 指摘し、「障碍者」と表記することを 提案されています。 わたしは8月26日に、うえの記事に つぎのようにコメントしました。 「しょーがいしゃ」という ことばは、さまざまな たちばにある ひとが、つかっていますよね。名ざす側も、名ざされる側も。 名ざす側の倫理として議論するのも いいのですが、名ざす/名ざされるという関係を こえて、「名のる」ことばでも ありますよね。自称としてね。 どのように表記するにせよ、音にすれば全部「しょーがいしゃ」です。不具者な

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    florentine
    florentine 2009/12/18
    「自分のなかの健常者中心主義と むきあい」
  • 『社会言語学』9号 - hituziのブログじゃがー

    ついに、『社会言語学』9号が できました。 テーマ別に紹介します。 障害学 打浪(古賀)文子(うちなみ(こが)・あやこ)「障害者と情報アクセシビリティに関する諸課題の整理−情報保障の概念を中心に」 あべ・やすし 「言語という障害−知的障害者を排除するもの」 田中邦夫(たなか・くにお)講演録「情報はどう保障されているか−中途失聴者から見た現状」 すぎむら なおみ 書評 「LLブックを学校へ! 藤澤和子(ふじさわ・かずこ)・服部敦司(はっとり・あつし)編 『LLブックを届ける やさしく読めるを知的障害・自閉症のある読者へ』(読書工房、2009)」 日教育 すみ ともゆき 「教科日語における漢字のカベ−その予備的考察」 足立祐子(あだち・ゆうこ)「第二言語としての日教育の課題」 布尾 勝一郎(ぬのお・かついちろう)「インドネシア人看護師・介護福祉士候補者受け入れに関する新聞報道−「日

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    florentine
    florentine 2009/11/30
    あ、中村桃子さんの本の書評がある!