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  • レイソル、拡大トヨタカップに挑戦: 武藤文雄のサッカー講釈

    レイソルが堂々とJ1を制覇した。前身の日立がJSLを制したのが72年シーズンだったから、実に39年、38期振りの日一である。当時の中心選手は、野村六彦、山口芳忠、平沢周策、松永章と言った選手で、碓井博行、西野朗、横谷政樹、吉川亨と言った後年のスタアでさえ、まだ入団していなかった時代である。 その70年代前半の日立を率いていたのは、高橋英辰氏。氏は長沼氏の前任の代表監督だった。つまり、言わばクラマー氏時代前の、日を代表する監督だった訳だ。そして、高橋氏が日立を率いて秀でた実績を挙げた事は、クラマー以前に日サッカーにも相当な蓄積、ノウハウがあった事を示している。実際に、氏が標榜したサッカーは、運動量豊富なサッカー。当時日立は「走る日立」と呼ばれていた。何となく、今日につながるものがあるな。 いや、全くの余談。当時日立とJSL上位を争っていたライバルを俯瞰。東洋工業(サンフレッチェ)はレベ

  • 「腐ったミカン」から16年: 武藤文雄のサッカー講釈

    レイソルを率いてJを制覇したネルシーニョ氏について。 レイソルの鮮やかな勝利については、別途講釈を垂れようと思う。ただし、レイソルの優勝を称える報道があふれる中、不思議だったのは、ネルシーニョ氏の16年前の悲劇について言及するマスコミが、あまり見つけられなかった事だ。そう昔の事ではないのだが。 ハンス・オフト氏が率い92年のアジアカップを初制覇した日は、USAワールドカップまであと一歩にせまりながら、93年秋に「ドーハの悲劇」に散った。 そして、94年日協会は、かつてのブラジルのスーパースタアだったファルカン氏を監督に招聘した。氏は独特の選考眼で、意表をつく選手をチームに加えながらチームを作った。しかし、同年のアジア大会の準々決勝で韓国に苦杯。就任1年足らずで更迭される。もう少し様子を見てもよいのではないかと言う意見も多かったが、当時の川淵強化委員長はそう決断した(後年、氏が協会会長に

  • 大迫勇也対ゴール裏のカメラマン: 武藤文雄のサッカー講釈

    4月14日付発売のエルゴラッソの一面が実に面白かった。 大迫勇也のJ初得点(もっとも既にACLで既に2得点しているが)時の写真が掲載されている。その写真には大迫の美しいインステップキックのバックスイングが写っている。けれども、全く焦点は合っていない。焦点は、後方で大迫に対し両手を広げリターンパスを大声で要求している小笠原にピタリ。 あの場面、ペナルティエリア内で好パスを受けた大迫は、マークに付いていた羽生、カバーに入った佐原の2人を打ち破って(もちろん技巧でこの2人を「抜いた」のだが、そこでのボディバランスが絶妙だったので「抜いた」と言うよりは「打ち破る」と言う言葉を用いたい)、二アサイドに強シュートを決めた。ボールを受ける位置取り、その後の抜群のボディバランス、冷静で強いシュート。見事な得点だった。 なるほど、最初に大迫がボールを受けた場所はFC東京ゴールにほど近いものの、マークも付かれ

  • 加藤望引退: 武藤文雄のサッカー講釈

    レイソル、ベルマーレで活躍した大ベテランの加藤望が引退すると言う。39歳、当に長い間見事なプレイを見せてくれたものだと思う。だいたい同じ大学の同期生が澤登正朗と磯貝洋光なのだから。お疲れ様でした。 私が初めて加藤の噂を聞いたのは、彼が東北学院高校在学時。この東北学院と言う学校は、高校でも大学でも常に我々の眼の上のタンコブ的な忌々しい存在だった(もっとも先方は、当方の事など歯牙にもかけていなかっただろうが)。仙台に帰省した折に、宮城県協会がらみの知人が興奮して語ってくれた。「ボデェバランスがすんごぐよぐでなあ、ユースでも外国人相手にドリブルが通用すたって、えれぇ高い評価されたんだ。親父さんがなレスリングの先生でな、望も腹筋が強えからでねえかって。」思わず私も「んだっだら、期待できんなあ、名前も加藤だすなあ、日リーグさ来んの愉すみだべ」と反応したものだった。当時、宮城県出身選手としては、加

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