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近世に関するfumiruiのブックマーク (13)

  • 熱波襲来の英国、隠れていた17世紀の庭園が出現 芝生が枯れ

    (CNN) このほど英国全土を襲った熱波の影響で、ダービーシャー州にある歴史的邸宅チャッツワース・ハウスの芝生が枯れ、17世紀に存在した観賞用庭園の遺構が現れた。邸宅を管理する団体が明らかにした。 同団体によると、観賞用庭園の輪郭は1699年にさかのぼるものだという。 史料の絵を見ると、当時は広大な庭園であったことが分かる。この庭園は1730年ごろに置き換えられた。 今後再び雨が降り、芝生が伸びるにつれ、庭の輪郭は少しずつ消えていく見通し。 同団体によると、チャッツワース・ハウスはデボンシャー公爵一家の自宅で、16世代にわたり受け継がれてきたという。

    熱波襲来の英国、隠れていた17世紀の庭園が出現 芝生が枯れ
  • 日本人が知らない裏歴史…江戸時代、幕府が「ミイラ」を大量輸入していたワケ(週刊現代) @gendai_biz

    「日医学」の発展の陰で 江戸時代、幕府が鎖国を行い、自国の支配を強固にしたことは周知の通りだ。しかしこの間、完全に海外との交流を断絶していたわけではない。幕府はいわゆる「四つの口」と呼ばれる、長崎の出島、対馬、薩摩、松前の地で貿易を行ってきた。 当時の輸入品の大部分は生糸や絹織物で占められていたが、それ以外に一風変わった代物もあった。例えば、享保13(1728)年に時の将軍、徳川吉宗が中国の商人から取り寄せた象などは有名だろう。 だが、奇妙な輸入品は他にもある。江戸中期以降、西洋医学の研究が盛んになると、伝統的な漢方医学と融合し、日医学は独自の発展を遂げるようになった。 その過程で海外から様々な薬が輸入されたのだが、その中には、なんと「ミイラ」があったのだ。 当時、薬学に精通していた学者の貝原益軒が編纂した書物に『大和草』がある。同書では日内外の1362種の動植物・鉱物の効能がまと

    日本人が知らない裏歴史…江戸時代、幕府が「ミイラ」を大量輸入していたワケ(週刊現代) @gendai_biz
  • 戦国時代『騎馬隊』はあったの、無かったの?(=”兵種別編成”はあったの?)どうやって戦場の手柄を論証するの?〜戎光祥ヒストリカルセミナーより

    戦国時代「騎馬隊」は無かった、いやあった、とかって、地味に歴史クラスタで話題が続いてますよね。そんな議論を見つけたので保存させてもらいます。時系列がちょっと前後しますのでご注意ください

    戦国時代『騎馬隊』はあったの、無かったの?(=”兵種別編成”はあったの?)どうやって戦場の手柄を論証するの?〜戎光祥ヒストリカルセミナーより
  • えどえどアートらいふ

    イラストレーター百々敬子のブログ。江戸や歴史、和風イラストをブログにて掲載。ポートフォリオもあります。

  • 信長と対立した僧侶が秀吉に宛てた書状見つかる | NHKニュース

    織田信長と激しく対立した浄土真宗の僧侶、顕如が、信長の死後、羽柴秀吉に接近しようと書いた書状が2通見つかりました。秀吉宛ての書状はほとんど残っていないということで、調査にあたった専門家は「この段階で、秀吉を権力のある人物と認識していたことがはっきりと分かる貴重な史料だ」と指摘しています。 顕如は「石山合戦」でおよそ10年にわたって織田信長と激しく対立し、和睦のあと、拠点としていた大坂の石山願寺を出て紀伊、今の和歌山県に移っていました。 調査にあたった史料編纂所の村井祐樹准教授によりますと、書状は、1通が、信長が討たれた「能寺の変」の翌年の天正11年=西暦1583年に書かれたと考えられ、大坂に入ることになった秀吉に対してあいさつのため使者を送るという内容です。 もう1通は、秀吉の昇進の祝いに刀などを献上するという内容が記され、秀吉が初めて朝廷から位をもらった天正12年に送られたとみられる

    信長と対立した僧侶が秀吉に宛てた書状見つかる | NHKニュース
  • 「本能寺の変」後の柴田勝家直筆の書状見つかる | NHKニュース

    明智光秀が織田信長を討った「能寺の変」の8日後に、信長の重臣として知られる柴田勝家が織田方に宛てた直筆の書状が新潟県新発田市で見つかりました。光秀の討伐に出遅れた勝家が、当時、京都から大阪に展開していた光秀の居場所を正確に把握できていなかったことがうかがえる内容で、専門家は「能寺の変直後の勝家の情報収集の水準がわかる貴重な記録だ」と指摘しています。 郷土史に詳しい新潟大学の冨澤信明名誉教授が新発田市の溝口家に残る歴史資料の中から見つけました。 書状の冒頭には、「天下の形勢は致し方ないことで言語に絶するばかりだ」と、能寺の変について勝家の驚きのことばが記されています。そして明智光秀が、拠点としていた江州、今の滋賀県にいるとみて、当時の大坂にいた織田方の重臣、丹羽長秀と連携して光秀を討伐する計画を明らかにしています。 調査にあたった専門家によると、能寺の変のあと勝家が光秀の居場所に言及

    「本能寺の変」後の柴田勝家直筆の書状見つかる | NHKニュース
  • 「明暦の大火(振袖火事)」と復興、江戸の都市改造 | Kousyoublog

    明暦三年一月十八日(西暦1657年3月2日)から十九日にかけ三次に渡り連続して発生して江戸の町を焼きつくした大規模火災は明暦の大火と呼ばれて「江戸の三大大火」の一つに数えられている。また、この大火災害からの復興の過程で江戸の町が整備され、後の百万都市「大江戸」の土台が整うことになった。 明暦の大火の発生当時の江戸は、約八十日間雨が降っておらず非常に乾燥して火災が起こりやすい状態にあり、また年初より小規模火災が頻発していた。さらに、前日十七日頃から北西の風が吹き、十八日未明から強風となって朝になってもなお砂塵で暗かったという。乾燥した気候と延焼しやすい強風という悪条件が重なっていたのである。 第一次:郷丸山町妙寺から出火一月十八日未の刻(午後二時頃)、郷丸山町(文京区)の寺院妙寺から出火、強風を受けて郷・湯島・駿河台へと延焼、湯島天神・神田明神・東願寺を焼いて神田川南岸(現在の万

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  • 江戸期和装本:高校に 300冊、大正末期購入か 姫路・琴丘高 /兵庫 | 毎日新聞

    姫路市今宿の市立琴丘高校の図書館に江戸~明治時代の「和装」が約300冊保管されていたことが分かり、11日、虫干しをかねて生徒や保護者に公開された。中には、1712(正徳2)年に出た百科事典「和漢三才図会」の全81冊や1673(延宝元)年の源氏物語注釈書、北村季吟「湖月抄」全60冊など貴重なものもある。長らく書庫に眠っていたものも多く、今後、目録を作り、国語や日史などの授業に活用する。【幸長由子】 今年4月、市広報課が同校所蔵の江戸時代の観光案内書「播州名所巡覧図絵」(1804年)を閲覧したい、と問い合わせたことがきっかけ。この3月まで市教委文化財課主任文化財専門員だった宇那木隆司校長が書庫を調べたところ、保管用のロッカーに他にも数多くの和装が入っていることが分かった。書庫の片隅にホコリをかぶった木箱も見つかり、中から「和漢三才図会」が出てきた。

    江戸期和装本:高校に 300冊、大正末期購入か 姫路・琴丘高 /兵庫 | 毎日新聞
  • 戦国・江戸期のキリシタン事情、禁教事情

    長崎・天草、世界文化遺産に登録へ 潜伏キリシタン遺産 「…ユネスコ(国連教育科学文化機関)の世界文化遺産に「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」(長崎、熊両県)が登録される見通しとなった…」 https://news.yahoo.co.jp/pickup/6281265このことを受けて話題になった、キリシタン史。キリシタン大名の実態は。禁教の意味と理由は。当時のカソリックのスタンスは。その宗教的位置づけは…

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  • 独身が5割超、江戸男子に学ぶシングルライフ

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    独身が5割超、江戸男子に学ぶシングルライフ
  • 論文『中近世移行期の津軽における開発とアイヌ社会』内容ざっくり要約ツイまとめ

    帆船ハッカ @kotosakikotoko 『中近世移行期の津軽における開発とアイヌ社会』が面白かったのでつらつら内容ツイしてみる。や、この論文、大浦氏による中近世の歴史的経過の一面も意図せず描いていて楽しいのですよ。 2017-12-18 22:03:30 帆船ハッカ @kotosakikotoko 中世の津軽にアイヌが居住していたのはわりと知られている事だと思うけれども、かつて擦文文化が広がる広範囲の地域にいたであろうアイヌが、近世初期には『陸奥国津軽郡之絵図』などで見られるような、夏泊半島と津軽半島の先端にその居住域が限定されているはなぜか、という問いが提起される。 2017-12-18 22:12:52 帆船ハッカ @kotosakikotoko 著者は先に結論として『中近世移行期の津軽において、大規模な新田開発とそれに伴う多くの和人村落の創出が、アイヌの土地を奪いながら進展した事

    論文『中近世移行期の津軽における開発とアイヌ社会』内容ざっくり要約ツイまとめ
  • 秀忠、織部に武家茶へ転換指示か 茶道史の定説変える可能性 - 共同通信 47NEWS

    古田織部に関する新たな記述が見つかった「家系譜 古田氏」(竹田市立歴史資料館蔵) 古田織部の肖像画  武将で茶人の古田織部(1615年没)の親族の家譜に、徳川秀忠が織部に格式を重んじる武家流の茶法を定めるよう命じたとする記述があることが15日、古田織部美術館(京都市北区)の調査で分かった。 これまで、千利休に代表される町衆の茶道に代わる武家茶道(大名茶)を定めるよう織部に命じたのは、豊臣秀吉とされてきた。安土桃山時代の織豊文化の研究者で「古田織部」の著者・諏訪勝則さんは「秀忠が茶道を重要視し、武家茶道の創設により文化的に諸大名を従えようとしたと解釈できる。茶道史の定説を変える可能性がある資料だ」と評価している。

    秀忠、織部に武家茶へ転換指示か 茶道史の定説変える可能性 - 共同通信 47NEWS
  • 「柳生十兵衛が隻眼、という話の出典がそもそも分からない」という話。

    ちょこらーたは誤チェスト @tyokorata ところで、世界各国、歴史上の色んな時代から集められた、十兵衛だらけのレンジャー、その名も十レンジャーを結成するというアイディアをですな。 明智十兵衛光秀と、柳生十兵衛と、石川賢の十兵衛と、朝鮮柳生のry 神無月久音 @k_hisane 光秀「わし以外全員隻眼なんだがどういうことなの」 @tyokorata 世界各国、歴史上の色んな時代から集められた、十兵衛だらけのレンジャー、その名も十レンジャーを結成するというアイディアをですな。

    「柳生十兵衛が隻眼、という話の出典がそもそも分からない」という話。
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