→紀伊國屋ウェブストアで購入 「若者言葉と、きちんとした国語と、この二つを使い分けるように教育することが重要であり、必要だと思う。(本書7ページ)」という著者の提言は、まったくその通りだと思う。しかし問題は、いい年をした大人までがこうした言葉をつい使ってしまうところにある。これでは若者がきちんとした日本語をしゃべれるようになるわけがない。テレビに登場する芸人たちはもちろんのこと、本来は正しい言葉を使うべき報道番組のキャスターでさえ、使えていない場合が少なくない。言質を取られまいとして曖昧な表現に終始する政治家の答弁はもとより、コンビニエンスストアやファミリーレストランの店員が口にする不思議な言葉遣いも、「大いに問題あり!」なのだ。 内館の本を読み始めると、初めこそ「そうそう、そうなんだ」「皆同じことを感じているのだなあ」と思いつつ、そこに紹介されている例文を楽しむ余裕がある。が、次第に心が
→紀伊國屋ウェブストアで購入 今回、途中で放りだしたのも含めると群論関係の本を13冊手にとったが、1冊だけ選べといわれたら、迷わず本書を選ぶ。わかりやすいというだけでなく、文章に含蓄があり、天才たちのエピソードの紹介にも人間的な奥行が感じられるのだ。本書は数学の啓蒙書を超えて一個の文学作品になっているといっていいだろう。 著者のマーカス・デュ・ソートイは現役の数学者で、群論と整数論を専門にしている。BBCの科学番組にたびたび出演していて(未見であるが、NHKから「オックスフォード白熱教室」として放映されている)、最初の著書『素数の音楽』は世界的なベストセラーになった。 本書は数学者の一人語りの体裁をとっていて、40歳の誕生日の2005年8月から翌年7月までの1年間の出来事――家族旅行で訪れたアルハンブラ宮殿に平面で可能な17種類のシンメトリーを探したこと、沖縄で開かれた群論の小さな学会、共
→紀伊國屋ウェブストアで購入 「羞恥の発掘」 今回の枕の一冊は、”Seeing and Being Seen: Emerging from a Psychic Retreat” (John Steiner, Routledge, 2011) 。防衛の牙城に引き籠る心的事態(Psychic Retreat)の解明に勤しんできたシュタイナーの第二作だ。日本でも、『見ることと見られること-「こころの退避」から「恥」の精神分析へ』(岩崎学術出版社、2013)というタイトルで翻訳出版されている。フロイトとメラニー・クラインの血統を示す、著者の存在証明の書という印象を受けた。妄想分裂ポジションと抑うつポジションというクラインの発達シェーマを基盤に、エディプス・コンプレックスをはじめ、同業者内ですら悪名高い「死の欲動」を読み直していることが目新しく、臨床例で肉づけされていて読み易い。精神分析界のキーワー
→紀伊國屋ウェブストアで購入 群論の研究者が書いた一般向けの本だが、内容はかなり高度である。 日本版の副題は「数学の美を求めて」だが、原著では「もっとも偉大な数学の探求の一つ」となっていて、著者自身が参加した「アトラス(地図帳)計画」をさす。 群論を開拓したガロアは群を部分群に分解していくと、それ以上分解できない単純群と呼ばれる特別な群に行き着くことを発見した(単純群とは整数論における素数のようなものといえるかもしれない)。「アトラス計画」とは、この単純群をすべて分類しつくそうという壮大な計画で、1960年代にはじまった。当初は終わりがあるのかどうかもわからず、すくなくとも20世紀中には終わらないだろうと言われていたが、1980年頃には終わってしまい、1985年から電話帳のような『アトラス』の刊行がはじまった。 めでたしめでたしと言いたいところだが、探求の過程で「モンスター群」と呼ばれる巨
→紀伊國屋ウェブストアで購入 「これからの時代の、「子育て/親育ち」を少年野球に学ぶ!」 いきなり私ごとで恐縮だが、また以前の私をご存知の方ならば大いに驚かれることだろうが、今年度初めから、地元の少年野球チームでコーチをやっている。毎週末は、練習の手伝いや試合の付き添いに出かけている。 およそキャッチボールぐらいしか野球経験のない、文化系街道まっしぐらの私だったが、息子の入団とともに、人出不足のチームのお手伝いをしているうちに、気が付いたらそうなっていた。だがこれが実に楽しく、充実感があるのだ。 実際に体験してみて思うのは、少年野球は勝ち負けを競う「スポーツ」でもありながら、むしろ「教育」、いやそれが堅苦しい言葉ならば、「子育て」であり、それと同時に「親育ち」ということだ。 プロや大学生などと比べてしまえば、技術や迫力の面では大幅に劣ってしまう子どもたちの試合だが、これが見ているうちに、つ
→紀伊國屋ウェブストアで購入 「捨て石」ということばが気になった。第4章「冷戦の<要石>と<捨て石>」の「おわりに」で、著者、石原俊は、つぎのように繰り返し「捨て石」ということばを使っている。「小笠原諸島・硫黄諸島はアジア太平洋戦争において、ミクロネシアの島々や沖縄諸島などとともに日本内地の防衛と「国体護持」の<捨て石>として利用され、住民は難民化や軍務動員を強いられた。そして両諸島は「サンフランシスコ体制」の形成過程で、沖縄諸島などとともに米国の軍事利用に供され、日本の再独立・復興の<捨て石>として利用された。これによって両諸島は米軍の秘密基地として使用され、米国の戦略的信託統治のもとで核実験などに軍事利用されたミクロネシアの多くの島々と同様、島民たちはディアスポラ化(故郷喪失・離散)を強いられた。さらに、日本への施政権返還後も硫黄諸島民の難民状態は継続し、ポスト冷戦期の米軍再編のなかで
→紀伊國屋ウェブストアで購入 「軍師の実像」 2014年のNHK大河ドラマは、豊臣秀吉の軍師をつとめた黒田官兵衛が主人公だという。街の書店には、すでに官兵衛関連の本がたくさん並んでいる。そのなかで、本書(小和田哲男著『黒田官兵衛』平凡社新書、2013年)を選んだのは、比較的短時間に官兵衛が生きた時代とその人物についての知識を時系列でわかりやすく叙述しているからである。著者は日本中世史が専門で、大河ドラマの時代考証をつとめるなど、高名な歴史家だが、絶好のタイミングで歴史物を書き下ろす才能は貴重なものである。 歴史を語る場合、一次資料のように信頼度の比較的高いものと、そうではないものを区別する作業が必要だが、前者だけではわからないことは、ほかの資料を基に「推測」することも場合によっては役に立つ。本書を読むと、この区別をつねに明確にしながら書き進めているのがよくわかる。 例えば、本能寺の変の第一
→紀伊國屋ウェブストアで購入 『舞姫』のエリスのモデル、エリーゼ・ヴィーゲルトをつきとめた『鷗外の恋 舞姫エリスの真実』の続編である。著者がついにエリーゼの写真にまで行き着いたことは新聞の報道などでご存知だろう。本書はこの奇跡ともいえる発見の顚末を語っている。 前著のしらみつぶしの調査の後でまだ調べることが残っているのだろうか、周辺的事実の落ち穂拾いで終わってしまうのではないだろうかと危惧して読みはじめたが、はたして370ページのうち最初の270ページは心配したとおりの展開だった。 六草いちか氏は調査を再開するにあたり一つの仮説を立てる。エリスは鷗外の子供を身ごもっており、ドイツに帰ってから産んだのではないか、というのだ。 そう疑う理由はある。まず不幸な結末にもかかわらずエリーゼが鷗外と文通をつづけていたこと。日本くんだりまで行ったのに追い返され(帰りの船の件で森家はエリーゼにひどい仕打を
→紀伊國屋ウェブストアで購入 方程式の研究は16世紀に急激に進んだ。まず3次方程式の解法が発見され、すぐに4次方程式が解かれた。次は5次方程式だが、多くの数学者が挑戦したもののどうしても解けなかった。そこで解けない理由があるのではないかという疑いが出てきた。 5次方程式が加減乗除と√では解けないことを証明したのはノルウェイのアーベルだが、どういう方程式なら解けるのかという証明がまだ残っていた。 方程式の問題を最終的に解決したのは17歳のガロアである。彼は単に方程式が解ける必要十分条件を示しただけでなく、証明の過程で無限の問題を有限のモデル(群)に落としこんで解決する手法を編みだした。これがガロア理論で、現代数学のもっとも強力なツールとなっている。 今日大学でガロア理論をとりあげる際は、アルティンの『ガロア理論入門』(ちくま学芸文庫)のように、まず抽象化された群論を教え、最後にその応用として
→『ガロアの時代 ガロアの数学〈1〉時代篇』を購入 →『ガロアの時代 ガロアの数学〈2〉数学篇』を購入 百歳の天壽をまっとうした日本を代表する数学者が93歳と96歳の時に上梓した本である。こういう言い方は失礼かもしれないが、よくある回想録の類ではなく、原資料や最新の研究にあたって書かれた本格的な著作である。文章はきびきびしていて無用のくりかえしはない。90代半ばにしてこれだけの文章が書けるとは。かくありたいものだ。 本書はガロアの生涯を描いた「時代篇」と業績を解説した「数学篇」の2巻からなる。 「時代篇」は4章にわかれ、各章の末尾には簡単な年表がついている。 第1章「時代背景 政治史から」は25頁ほどの簡単なものだが、ガロアが在籍したルイ・ル・グラン校やエコール・プレパラトワール、入学を果たせなかったエコール・ポリテクニークについてまとめられているのはありがたい。 エコール・ポリテクニーク
→紀伊國屋ウェブストアで購入 「時代劇通になれる」 書物を刊行する者にとっては、校正者は頼みの綱である。400字詰原稿用紙でいえば、300枚以上ときには500枚を超える量を書いていると、念には念を入れたつもりでも思わぬところで、勘違いやケアレスミスがどうしてもでてくるからである。重要なところで間違いがあれば、読者も興ざめになるだろう。だから執筆者にとってはよき校正者に当たるかどうかは、かなり重要である。ドラマや映画などの映像では、書物における校正者にあたるものが考証担当者である。 とくに時代劇になれば、調度品、服装、風景など考証担当者にお世話にならなければならない。言葉遣いだってそうである。時代劇なのに「元気をもらった」とか「自信たっぷり」のような言葉が使われていれば、つくりものがすけてみえ、しらけてしまう。 そういえば、評者も時代劇を観ていて、これはちがうだろうと思ったことがよくある。た
→紀伊國屋ウェブストアで購入 こんな本が、東南アジア各国・地域の人、あるいは東南アジア出身の人によってもっとたくさん書かれれば、東南アジアのことがもっとよく理解してもらえるのに、とまず思った。つぎに、こんな本を書いてみたいとも思ったが、外国人研究者には書けないと思い直した。むしろ、外国人研究者だからこそ書けるものを考えるべきだと思った。 まず、現在のビルマのことがわかると思って、本書を開いて不思議に思った。目次の後に、4葉(4頁)の地図があった。それぞれのタイトルが、「紀元前1世紀の中国、ビルマ、インド」「紀元前1世紀のビルマと近隣国」「17世紀のビルマと近隣国」「2011年のビルマと近隣国」だった。いったい、なんの本だ?、と思った。 本書は、プロローグ、3部、エピローグからなる。第1部「裏口から入るアジア」では、ビルマの現状を、歴史と文化を踏まえて語っている。第2部「未開の南西部」では中
→紀伊國屋ウェブストアで購入 「在りし日のアメリカ遊学記」 都留重人(1912-2006)が1950年に書いた『アメリカ遊学記』(岩波新書)がアンコール復刊された。今となっては古いところもあるかもしれないが、約11年間に及ぶアメリカ滞在記は、20世紀前半のアメリカを知るには貴重な記録ともいえる。 都留がアメリカ留学に旅立ったのは1931年9月だったが、当初はウィスコンシン州の片田舎アプルトンに滞在し、ローレンス・カレッジにて2年間学んだ。アメリカに留学したのは、旧制八高の反帝同盟事件にかかわって除籍になり、日本でそれ以上の高等教育を受けることができなくなったからである。「当初は」と言ったのは、いずれドイツに渡って学びたいという気持が強かったからだが、それはもろもろの事情(ヒトラーの台頭にみられる欧州情勢の悪化など)で不可能になったので、「図らずも」11年間もアメリカで学ぶことになった。 当
→紀伊國屋ウェブストアで購入 「座談会をバカにしてはいけない」 「座談会」は日本独特の催しだ。もちろん外国でも対談、鼎談などないわけではないが、日本の文芸誌などで企画される、どことなく雑談めいたあのいきあたりばったりの会合は、参加者のニヤニヤした写真など添えられどうも脱力的で、内容も方向もあるんだかないんだか。それこそ集団ツイートみたいなもので、気楽にぱらっと眺められるのが何よりの売りとも見える。いやいや、あれこそ日本文化の神髄だよ、すごいんだよ、との意見もこれまでないではなかったが、多くは思いつきや直感的な指摘にとどまった。これに対し本書は、座談会そのものがいかに近代日本の思想形成に大きな役割を果たしてきたかを丁寧に裏付けようとした試みである。 鶴見氏の論点は明確だ。従来、座談はその〝なあなあ主義〟が批判され、「ええ、そうですねえ」のような台詞にあらわれたコンセンサス指向のため、西洋的な
→紀伊國屋ウェブストアで購入 アジア人にとって、西洋音楽であるクラシック音楽は特異なものではない。日本の環境もそうであるように、若者は西洋音楽の中で生まれ、育ち、教育される。彼らにとっての音楽は西洋音楽なのだ。そうした環境の中、音楽にのめりこみ、もっと上手になりたい、と願う者が出現するのは当然だろう。そのためにクラシック音楽の生まれ故郷であるヨーロッパ、あるいは“西洋人の国”であるアメリカその他の国々に留学することには、それなりのメリットがある。ただしその実現には才能とともに経済力も必要で、かつては日本、その後に台湾、韓国、そして近年では中国から数多くの留学生が渡航するようになっている。それと並行してシンガポールをはじめとする東南アジア地域でも、クラシック音楽の勢いは以前にも増して強まっているように見受けられる。 こうした教育を享受するためには、家族のサポートが欠かせない。専門職としてのス
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