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ブックマーク / robertcampbell.jp (3)

  • 「ここにいるよ」と言えない社会 - ロバート キャンベル公式サイト

    衆院議員が性的指向や性自認のことを「趣味みたいなもの」と言うのを聞いて笑ってしまった。習い事のように何かのきっかけで始めたり、途中でやめたりできるもののように聞こえたから。当事者からすると、むしろ生を貫く芯みたいなものだと捉える人が多いに違いありません。言語にたとえるとどうでしょう。母語と同じように特段意識はしなくても、他者との交流の中で自然と芽生え、育ち、人間としてのポテンシャルを深めてくれる資質の一つであると私自身は見ています。言葉と違うのは、外国語のように学習してまるで違う文化に身を投じることはできない、という点でしょうか。 同性愛者、両性愛者、トランスジェンダーの人々をひっくるめて「生産性がない」ので「支援」に値しないという別の議員が発した言葉も、お粗末すぎて、反論する気持ちも起きません。 私は、日社会に生きるのに、支援を必要とする意識を持って来ませんでした。でも最初から日で日

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  • 九州大学入学式祝辞 「共感」の落とし穴 - ロバート キャンベル公式サイト

    建ったばかりの椎木講堂は満員。九大フィル演奏、久保総長の告辞、新入生総代による誓詞、同窓生紹介の後に、来賓すなわち私の祝辞。 人が「いいことをしたい」気持ちって何だろう、という疑問を中心に約10分の話。終わってから、「文字として読みたい」というツイートが流れたので、再録(というより、初めて公開)します。 なお最近、共感の危うさについての優れた考察がいくつか発表されています。今回はとくにPaul Bloomの Against Empathy: The Case for Rational Compassion (New York: 2016年)と

    九州大学入学式祝辞 「共感」の落とし穴 - ロバート キャンベル公式サイト
  • もてなしと待ち人/『天理時報』3月6日付「キャンベル教授のニッポン再発見」より - ロバート キャンベル公式サイト

    春になったら友達を呼ぼうね、と考えるのは、冬も終わりに近い証拠であり、あと少し待てば花見もできる好季節だ。 おもてなしの基中の基は、「お客さまを待つ」ことである。冷たい飲み物を準備したり、ソファのクッションをパンパンと叩いて形を整えたりしながら、鄭重に用意を重ね、その時刻に合わせて玄関の内側で来客を「待ち受ける」ことから歓待は始まる。 考えてみれば「待」という漢字は不思議なものだ。「ある人がやってくるのを期待し、その場にとどまって、じっとする」という意味と、「来客をもてなす、応対する」という意味を兼ねそなえている。言いかえれば、待ち人が到来する「前」と「後」が一つの流れにまとめられていて、「待っている」間と「もてなしている」時間が、縫い目なく一につながっていることに感心させられる。むかし日では「待賈」(=よい価で買ってくれる人の到来を待つ)といえば、商人の当たり前の姿であった。 人

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